高力清長
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高力 清長(こうりき きよなが、1530年(享禄3年) - 1608年3月12日(慶長13年1月26日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての徳川氏の家臣。高力安長の子。正室は阿部道金の娘。
三河国出身。天文21年(1552年)から徳川家康に仕え、天野康景や本多重次らと共に家康三河時代の三奉行の一人として重用された。康景は慎重、重次は剛毅、清長は寛大と評され、「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」という様に、「仏高力」として名が知られている。
家康には奉行として重用されたが、桶狭間の戦いでの大高城兵糧入れ、三河一向一揆の鎮圧、遠州平定戦、小牧・長久手の戦いと徳川氏における主要な戦いの多くに参加して武功を挙げ、朝鮮の役では軍船建造を担当し、家康の覇業に大いに貢献した譜代中の譜代の家臣である。天正18年(1590年)、それまでの功を賞されて武蔵国岩槻藩に2万石の所領を与えられた。
晩年は息子の高力正長が早世するなどの不幸もあった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は隠居し、孫の高力忠房に家督を譲った。
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