高麗若光
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高麗 若光(こま の じゃっこう、生年不詳-730年(天平2年))は高句麗王家の子孫で有る奈良時代の大領。日本書紀に記述が有る高句麗から派遣された、副使の二位・玄武若光と同一人物とされる。
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[編集] 生涯
高句麗王族と見られるが所系未詳。日本書記によれば666年に高句麗の使者として来日した。668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされると帰国の機会を失う。『続日本紀』によると703年(大宝3年)に文武天皇により高麗王の氏姓を賜ると有り、従五位下に叙された。これ以後、国史に若光及び「高麗王」という氏姓を称する人物は全く現れない。
高麗神社の社伝等によると、716年(霊亀2年)に武蔵国(東山道)に高麗郡が設置された際、都より同郡に下って郡司となったという。東海道七ヶ国から移された1799人の高句麗人を率い、当時荒野で有った高麗郡内を開拓して民生を安定させたが、再び故郷の地を踏む事をなく730年(天平2年)に死去。長男・家重が高麗氏を継いだ。
若光は日頃、敬ってた猿田彦命を祭り一社を設ける。其処に武内宿禰を祭司して、白髭明神として崇拝した。若光の死後、高麗郡民は若光を高麗明神として信仰し、後に白髭明神に合祀され高麗神社に祭られている。
[編集] 墓所・霊廟
埼玉県日高市新堀にある聖天院・勝楽寺は高麗氏の菩提寺。若光の三男・聖雲が建てた。聖天院・勝楽寺の雷門手前右側に、若光の墓とされる高麗王廟がある。聖天院本堂左側には若光の銅像がある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 「高麗神社の風景」 2003年5月。
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