鴟河浦義挙
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鴟河浦義挙 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 치하포의거 |
漢字: | 鴟河浦義舉 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
しがほぎきょ |
片仮名: (現地語読み仮名): |
チハポイゴ |
ラテン文字転写: | Chihapo Euigeo |
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鴟河浦義挙(チハポぎきょ)とは、1896年、黄海道安岳郡で、金九らが、日本人・土田譲亮を集団で暴行、殺害し金品を奪った事件。強盗殺人犯の金九は、閔妃殺害事件(1895年10月8日)に対する日帝・日本人への懲罰と主張した[要出典]。この事件で金九は金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。後に特赦により減刑され、さらに後、脱獄する。
以後、金九は独立運動家としての道を歩むことになる。
目次 |
[編集] 事件の詳細
アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500。以下抜粋 在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件
- 長崎縣平民土田譲亮なる者朝鮮人1名(平安道龍岡居住林学吉二十歳)を隨へ、黄州より帰仁の為め鎮南浦へ向ふの途次、黄州十二浦より韓船一隻を僦ひ大同江を下り、3月8日夜治下浦に泊し、翌9日午前3時頃同所出帆の用意を了へ、喫飯の為め同所旅宿業李化甫方に到り再び帰船の際、同家の庭前に於て同家宿泊韓人4、5名の為め打殺せられたり。
- 雇韓人林も亦殺害の難に遭はんとせしも、辛ふじて危険を逃れ、同12日夜平壌に来り同所駐留平原警部に右の顛末を訴へたるを以て、同警部は巡査2名、巡検5名を率ひて同15日現場に臨み検視を行はんとせしに、右旅宿主人は警部等の到を聞きて逃走し、殺害者の屍体は既に河中に投棄したるを以て検死することを得ず。
なお、この中村以外の事件については同レファレンスコードA04010024500、1896年(明治29年)5月30日付『機密第41号』で詳細に知ることができる。
同様な資料は韓国ソウル大学奎章閣韓国学研究院の資料でも見ることができる。 資料名 黃海道來去案 資料番号「奎 17986」の一連の資料である。
[編集] 取調べ調書
調書(建陽 元年 8月 31日 仁川港警務官 取調べ 金順根 起草 金順根)によると
- 金九(金昌洙)は24日竜崗から安岳に行く途中で鄭一明(平壌)、定平(咸鏡道)、金長孫、金致亨と同じ船に乗って鴟河浦に到着し、同一の宿に宿泊した。
- 早朝に朝飯を終えて旅に出ようと思ったが、店幕(宿屋のこと)の法道(礼儀作法)は旅人に食膳を与える時は老少を判別し、その規則を守らなくてはならないが、短髮で刀のようなものをさした人が食膳を先に要求すると女店員がその人に先に食膳を与えるので心で甚だしく憤慨した。
- その人の本貫を調べると日本人なので『不共戴天之讎』(不倶戴天の仇)と思い胸の血が騒いだ。
- 日本人がわき目をしているうちに足で蹴り倒し、手で撲殺し凍った川に捨てた。
- 腹にあった財布からのお金で宿賃を支払い、3人の資金として使うことにした。
- 奪ったものは 環刀、ロバ1頭 小判75両程度
- ロバ1頭 残金をもち 単騎で載寧に向かった。
- 同年 3月に家に帰って来てから海州巡使に逮捕された
同時に鴟河浦の宿の主人 李化甫の調書でも上記が確認されている。詳細は外部リンクの取調べ調書をみられたい。
一部には土田は日本商人の武装行商団体鶏林奨業団の一員であった[1]という主張もあるが、この鶏林奨業団[2]の活動開始時期は1896年以降であり、これは明らかな誤りである。
[編集] 韓国での評価
鴟河浦義挙は1896年の閔妃殺害事件(1895年10月8日)に憤った義挙とされ、金九は国民の英雄、国父とされている。例えば、外部リンクの韓国白凡記念館(日本語版)では、
- 一八九六年鴟河浦で日本の浪人が明成皇后を殺害したのに対してかだきを討つためのことだといい、日本の陸軍中尉の土田譲亮を殺して投獄された。
と記載されている。
[編集] 注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- アジア歴史資料センター
- 金九は誰を殺したか (Dreamtale日記)
- 義挙の始末記(韓国語)
- 鶏林奨業団 (Dreamtale日記)
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