鶴久政治
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鶴久 政治(つるく まさはる、1964年3月31日 - )は、元チェッカーズのサイドボーカルであり、歌手、タレントである。
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[編集] 略歴・人物
久留米市で青果商を営む家に出生。久留米市立南筑高等学校を卒業後、第一経済大学へ進学、チェッカーズ加盟もメジャーデビューに伴う上京・ブレイクによる多忙化で大学は中退。サイドボーカルとしては高音部(ファルセット)を、曲によってはキーボードも担当した。チェッカーズオリジナル変更時には「WANDERER」、「Jim&Janeの伝説」、「Room」、「Cherie」、「Friends and Dream」、「夜明けのブレス」、「ミセスマーメイド」などを作曲し、藤井尚之とともにチェッカーズの作曲面を支えた。
1992年にチェッカーズ解散後は、大半のメンバーがチェッカーズ当時の事務所を離れた中で引き続き事務所に残り、ソロやタレントとして競艇場ライブやものまね番組等で活動。しかし後年事務所が組織改組(チェッカーズの肖像権・楽曲著作権管理のみの会社となりタレントのマネジメントから撤退)したため、一時オフィス・オヒョイに所属していたが、2003年にチェッカーズ時代の盟友高杢禎彦の所属事務所(当時)に移籍。しかしこの事務所も2006年に入り芸能マネジメント業から撤退、鶴久は再び他社へ移籍し今にいたる。
[編集] 音楽面での活動(ソロ)について
- チェッカーズ時代、メンバーの中ではソロ活動にも最も力を入れていた。チェッカーズ在籍中にソロシングル7枚とソロアルバム2枚がリリースされている。因みにソロシングル曲はチェッカーズ解散後にリリースされたシングルとともに、ポニーキャニオンから出されたベストアルバムに収録された。
- さらにチェッカーズ時代には、高橋リナとの男女デュエットユニット『MASARINA』としても活動していた。シングル2枚とアルバム1枚をリリースしている。
- 現在は前述の通り、ソロ歌手やタレントとして競艇場ライブやものまね番組等でも活動しているが、他のアーティストへの楽曲提供も行っている。最近の楽曲提供は、競艇誌「ボートボーイ」キャンペーンガール・山本優子の『I miss you』(2001年9月発売)など。
- 現在は、インディーズでソロ歌手活動中。ポニーキャニオンとの契約終了後、CDは所属事務所のマキシマム・エンターテイメントより、インディーズレーベルでリリースされている。2004年12月にはチェッカーズ時代の楽曲をカバーしたミニアルバム「THE WIND KNOWS MY NAME」を同レーベルより発売している。
[編集] チェッカーズ確執騒動における鶴久の立場・言動とその後
- 2004年、元チェッカーズのドラマー徳永善也が死去、亡くなる直前まで徳永と親しくしていた元メンバーらが発起人となり、送る会を開催した。鶴久は徳永とは音信不通状態(仔細については徳永の項目を参照されたい)であった為発起人には入らなかったが、参列することは歓迎され、会では親族の真後ろの2列目に座った。しかし鶴久はこれを不服とし、高杢禎彦と共にワイドショーや女性週刊誌などのメディアに多数出演、藤井フミヤら、発起人メンバーへのバッシングを繰り広げた。
- 徳永が癌で入院することを発表した直後の2003年9月27日、鶴久はとある女性シャンソン歌手のコンサートにゲスト出演。集まったファンから徳永について尋ねられ、「(徳永は)死ぬと思うよ」との旨発言し、鶴久に抗議が殺到する事態に発展してしまった。目撃者が多数いるため鶴久側も否定は出来ず、鶴久の公式BBSに抗議の書き込みが殺到した際も、管理者が「発言は真意ではない」と弁明するにとどまった。
- なお、公式BBSは抗議騒動の直後に閉鎖、その後ファンクラブ会員限定として再開されたが事務所が2006年に芸能マネジメント撤退したことによりこのBBSページは完全に消滅した。
- 徳永の通夜・告別式(於・久留米市)には、以前より入っていた競艇場でのショータイムの仕事がどうしてもキャンセルできず、高杢ですら最前列で参列した同式にはチェッカーズ元メンバーとしては唯一欠席している。
- 送る会後、「自分と高杢が徳永の見舞いに行った際、病室に発起人がいて、会わせてもらえなかった」と鶴久はワイドショーで訴えたが、徳永死亡直後の2004年8月17日夜の会見では、「お見舞いに行ったけど病院の判断で会えなかった」鶴久がはっきり言っており、矛盾が見られる。鶴久は、徳永に会いたいのに会えないまま亡くなってしまったとマスコミに訴えたが、鶴久と高杢が見舞いに行ったという時期から、徳永が死亡するまでは1年近く間があり、徳永はその一年のうち半年ほどは退院してライブ活動などを行っていた。
- これらの言動に対し、かつてのチェッカーズファンから鶴久本人・所属事務所に抗議・非難が殺到、鶴久は後日『婦人公論』のインタビューで『僕はフミヤさん・高杢さんのどちらの肩を持たぬ中立』の立場の旨誌上で弁明した。
- 確執騒動後、ポニーキャニオンが、チェッカーズのバラード曲の人気投票を行い、上位15曲を収録した「ALL BALLADS RIQUEST」というベスト盤をリリースした。鶴久はチェッカーズのメロディメーカーであり代表曲を多数作曲していたが、このベスト盤には一曲も収録されない結果となった。また、高杢が「師匠」と崇める芹澤廣明(チェッカーズ初期の作曲家)の作品も一曲も収録されず(芹澤は、編曲の欄にのみ名前が入った。)ファンの鶴久・高杢両名、そして芹澤への反発が反映された結果となった。
[編集] エピソード
- 愛煙家、それも未成年時代からというメンバーが多かったチェッカーズの中で鶴久は唯一酒もタバコも両方しなかった。これは「ファルセットを出すためノドを守ることと、酒が元来ダメだったこと」と本人が認めている。
- 実家は前述のとおり青果商をしていたが、チェッカーズ当時、しつこい追っかけに一番迷惑したのが鶴久の実家だったといわれる。