O・J・シンプソン
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オレンソール・ジェームズ・シンプソン(Orenthal James Simpson, 1947年7月9日 - )は、アメリカ合衆国のプロフットボール選手および俳優。O.J.(アメリカ合衆国でオレンジジュースの略語)のイニシャルでよく知られ、ジュースの愛称で呼ばれた。彼はアメリカン・フットボール選手として栄誉の殿堂入りした。また、日本においては恐らく、1994年に発生した彼の元妻の殺害事件で最も有名である。
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[編集] アメリカンフットボール経歴
ガリレオ高校に在籍中に、高校のアメリカンフットボールチーム・ガリレオライオンズに参加する。
サンフランシスコ市立大学の短期大学部でプレーした後、その能力を見込まれ南カリフォルニア大学に入学する。その後ハイズマントロフィー、マクスウェル賞を受賞、「(オレンジ)ジュース」のニックネームがつけられる。1969年にプロリーグであるNFLのドラフト(新人選手選択会議)で真っ先に指名を受ける。
NFLのドラフトは下位球団から順番に指名する制度(日本プロ野球において「ウェーバー方式」と呼ばれている方式)であるため、前年度に1勝12敗1引分というリーグ最悪の成績を残したバッファロー・ビルズによって指名された。1973年にシンプソンはNFLの年間記録として初めて2000ヤードを越える2003ヤードのランを記録し、当年のMVP(最優秀選手)賞を受賞した。後に2003ヤードの記録は破られるものの、当時は1シーズン14試合制であり、連続14試合の間に2003ヤード以上のランを記録したNFL選手は未だ現れていない。
シンプソンの1ゲームあたりの獲得ヤード数は、2位の選手より10ヤード多い。シンプソンはリーグ最強の攻撃陣に貢献し、「エレクトリック・カンパニー」と呼ばれたオフェンスラインに助けられた。シンプソンは1973年の活躍に対して当年の最優秀のプロスポーツ選手に与えられるヒコックベルトを受賞した。彼はNFL記録である6回の200ヤード獲得(そのうち3回は1973年、1973年と1976年には連続記録)を記録した。ビルズは低迷したが、シンプソン見たさに観客は集まった。
シンプソンは生涯に11,236ヤードのランを獲得し、All-Pro honor を5回受賞、プロボウルにも6回選ばれた。1978年にサンフランシスコ49ers(フォーティーナイナーズ)にトレードで移籍し、次の年の1月23日に引退した。1985年にはハイスマントロフィー獲得者としては初めてプロフットボール殿堂入りした。
[編集] 前妻の殺害と裁判
[編集] 発生
1994年6月13日午前0:10頃、シンプソンの別れた妻(ニコル・ブラウン)とその友人(ロナルド・ゴールドマン) の死体がカリフォルニア州ロサンゼルス、ブレントウッドにあるニコルの自宅玄関前で発見されたことから始まった。当時イリノイ州シカゴにいたシンプソンは、警察からの連絡でブレントウッドに一番早い便で帰った。飛行機から降りたシンプソンはいきなり手錠をはめられたが、顧問弁護士であるハワード・ワイズマンによりすぐに解かれた。
[編集] 追跡劇
その後もシンプソンは冷静に対処し、一度釈放されたが、その後、ロサンゼルスのハイウェイをパトカーの追跡を振り切り逃亡するといった疑わしい行為により捕らえられ、その後第1級殺人罪で逮捕されることとなる。なお、この逃亡劇は全米のテレビで生中継されたために全米中がテレビに釘付けとなり、食事の手間を省くためにピザの注文が急増した。ちょうど行われていたバスケットボールリーグ、NBAファイナルは忘れられて、テレビを見ているものの中からは「GO! OJ」(OJ逃げろ!)という声も起きた。
[編集] 顔写真
シンプソンが逮捕された後、多数の出版物は彼の写真を掲載した。タイム誌は彼の皮膚を暗くし、囚人ID番号のサイズを縮小した顔写真を表紙に用いた。一方ニューズウィーク誌はオリジナルの写真を表紙に用い、対照的な二誌が書店のスタンドに並ぶこととなった。タイム誌には市民グループからの抗議が続いた。後に写真を加工したタイム誌のイラストレーター、マット・マフリンは「より巧妙に、より注意を引きたかった」と語った。
[編集] 刑事裁判
OJは全面無罪と主張し、陪審裁判で決着をつけることとなる。OJの裁判では全米で有名な検察・弁護士が出揃い、世紀の裁判と呼ばれた。しかし、誰の目から見ても弁護団と検察では、弁護団のほうが質量ともに検察を凌いでいることは明らかであった。なぜなら、弁護団はドリームチームと呼ばれるほど、有名な弁護士達であったからである。そのためか、この事件を題材にした書籍グレイゾーンでは「単独」の検察、「全米選抜」の弁護団と称された。なお、シンプソンの弁護費用は日本円にして5億円といわれており、その規模がわかる[要出典]。
被害者が白人で、加害容疑者が黒人であったため、この裁判では人種問題が大きく取り上げられた。人種偏見によって裁判が行われてはならないとして、判事は日系人ランス・イトウが選出された。
弁護士は陪審員を黒人が多い地区から選出することを要求し、採用された。また白人が選出されても検察・弁護側に認められている専断的拒否権(理由を述べることなしに、選出された陪審員を除外することが一定回数以下は可能な権利)を最大限に行使した結果、陪審員12人のうち9人を黒人にすることに成功した。弁護士は殺人事件ではなく、人種問題という観点を裁判に持ち込んだ。注目された裁判のため、陪審員は一時期ホテルに隔離され、新聞を読むことやテレビを見ることも禁止された。1995年に陪審員は無罪と結論し、そのまま判決となった。アメリカでは無罪における検察の上訴は認められていないので、無罪が確定した。
無罪確定の最大の要因となったのは、検察側の証拠捏造疑惑である。ロサンゼルス警察のマーク・ファーマン(黒人差別主義者だったといわれている)が捜査の過程で血をばらまいたと示唆され、証拠が全て捏造されたものではないかと疑われる事態となった。シンプソンが有罪であるとする証拠は揃っていたと考え、証拠の管理体制など検察を批判する者は多い。
- 主なメンバー(太字はリーダー)
- 検察側
- ギル・ガーゼッチ(地方検事長)
- ウィリアム・ホッジマン(検事主将)
- マーシャ・クラーク(検察のエース)
- クリストファー・ダーデン(アフリカ系アメリカ人)
- ブライアン・ケルバーグ(検事)
- リサ・カーン(検事調査員)
- 弁護団
- ヘンリー・リー(中国人法医学者)
- ロバート・シャピーロ(全米一の弁護士と有名)
- ジョニー・コクラン(人種裁判で全米一と折り紙つき)
- バリー・シェック(DNA鑑定研究者)
- ピーター・ニューフィールド(前者と同)
- ジェラルド・ウールメン(サンタクララ大学法学部長)
- フランシス・リー・ベイリー(ハースト事件担当経験)
- アラン・ダーショビッツ(ハーバード大学憲法学者)
- マイケル・バーデン(元ニューヨーク市警検視官、キング牧師の遺体解剖経験)
- ロバート・カーダシアン(被告の友人で被告と弁護団の連絡係)
[編集] 民事裁判
刑事裁判にて無罪を勝ち取ったシンプソンは二度と起訴されることなく(憲法修正第5条にて)裁判に立つ必要はなくなった。しかし、シンプソンにはもうひとつの裁判が待ち受けていた。フレッド・ゴールドマン(ロナルドの父親)による民事裁判であった。刑事裁判に立たされることはないが、憲法修正第7条にて民事裁判による補償賠償と懲罰賠償を加害者にするように求めたのである。刑事裁判と民事裁判での違いは以下の4点であり、シンプソンに不利な要素も多かった。
- 刑事裁判は合理的に疑問があることを弁護側が示せば無罪であり、合理的疑問を超えなければ検察側は有罪に持ち込めないのだが、民事裁判では証拠の優越性が問われ、50.1%の優の証拠を示すことが勝敗の鍵となる。
- 刑事裁判では陪審員の全員一致が原則で、一人でも反対意見があれば全員の意見が一致するまで、話し合いがもたれる。このため、少数意見が最終的に採用される可能性がある。これに対し、民事裁判では全員一致は必要とされずに、70%(つまり12人中9人以上)の陪審員の意見が一致すれば決定が下される。
- 刑事裁判の行われた州では陪審員が黒人が多く選ばれたが、今回シンプソンに行われた民事裁判の州では資産家が密集する地域で陪審員には白人が選ばれる可能性が高く、実際に白人が多く選ばれた。
- 刑事裁判では憲法修正第5条によりシンプソンが証言台に立たず、証言することは拒めたものの、民事裁判では憲法の適用がされていないため、拒む理由がなくなった。拒んでしまうと陪審員の印象が悪化する傾向があるため、不戦敗も同然である。
これらのほかに、刑事裁判にて金銭的に苦しくなったシンプソンがジョニー・コクランを雇う金がなく、代わりにコクランの友人を使ったのに対して、原告側の弁護士がチームワークで最強を誇っていた事やファーマンの人種差別発言を武器にしない事など、不利な要素は多くあった。このような中で1997年に父親側の請求が認められ(認められた補償はゴールドマンのみ)父親に722万5千ドル、母親に127万5千ドルの補償をするように命ぜられた。シンプソンに支払い能力はそれほどなく、赤字が続き、豪邸も売却し、残るものは何もなかった。
[編集] 告白本出版騒動
2006年、シンプソンによる告白本「If I Did It(もし私がやっていたとしたら)」の出版を予定されていたが、遺族の反対に遭い、出版中止に追い込まれた。また遺族は出版社から、告白本やテレビインタビューを予定通りに進めるため、遺族が発言を控えるよう口止め料の提示を受けたことを暴露した。
[編集] 主な出演作
- 『タワーリング・インフェルノ』 - The Towering Inferno (1974)
- 『カサンドラ・クロス』 - The Cassandra Crossing (1976)
- 『カプリコン・1』 - Capricorn One (1978)
- 『裸の銃を持つ男』