アレクサンダー・フォン・フンボルト
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アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Baron Von Humboldt, 1769年9月14日 - 1859年5月6日)はドイツの博物学者兼探検家、地理学者。プロシアの首相であり言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトの弟である。
近代地理学の金字塔、大著『コスモス』を著したことは有名。カール・リッターとともに、近代地理学の祖とされている。また、ゲーテやシラーなどとも親交があったことで、知られる。
[編集] 経歴
1769年9月14日、ベルリンでプロシア貴族の家に生まれ、ゲッティンゲン大学、フライベルク鉱山専門学校で学んだ。ジェームズ・クックの第2回探検隊の隊員だったゲオルク・フォルスターと知り合い、彼とヨーロッパ旅行をしたことが彼を世界探検へと旅立たせるきっかけとなった。
母の死後、本格的な探検調査に乗り出し、スペイン首相の後援を受けて、当時のスペイン領アメリカへ向かうことになった。カナリア諸島のテネリフェ島で流星雨の観察を行い、その周期性の研究は今日の天体観測の基礎となった。
さらに南米大陸へと渡り、オリノコ川とアマゾン川が支流で結ばれていると断定し、様々な動植物の調査を行った。そして彼はコロンビアからアンデス山脈伝いにペルーまで困難な探検を行い、チンボラソ火山の山頂まで400mの地点まで到達し、リマに到達した。このとき、ペルー沿岸を流れる海流の調査をしたことにちなんで、フンボルト海流の名がつけられた。これらの体験を活かし、従来は互いに独立していた思われていた、動植物の分布と緯度や経度あるいは気候などの地理的な要因との関係を説き、近代地理学の方法論の先駆的業績ともいえる『コスモス』 (Kosmos) が書かれた。
南米からの帰国後、彼はイタリアのベスビオ火山の調査研究を行い、1807年にベルリンで『自然の風景』を出版、それまでの研究成果をまとめるためにパリに居を定めた。
この頃になると、フンボルトの名声はヨーロッパ中に轟き、ナポレオンに次いで有名な人物とも言われた。 既に1794年までに彼は全ての生命の形態と自然環境との関係を説く『世界の自然』を考えていたという。熱帯アメリカの山地における調査によって自然地理学と地球物理学の基礎を築いた。彼は地形、気象、地磁気の研究に様々な化学的器具を用い、植物とその環境との関係を調査して6万種に及ぶ膨大な標本を収集したが、その中には数千種に及ぶ新しい種や属が含まれていた。
フンボルトの写実的記録が科学の分野に大きな功績を残したことに疑う余地はなく、等温線図の作成(1817年)により、彼は様々な国の気候条件を比較する考えや方法を示し、また初めて海抜高度の増大に伴う気温の減少率を明らかにし、あるいは熱帯性暴風雨の起源を追求して高緯度での大気の擾乱を支配する複雑な法則を発見する手がかりを得た。さらに植物学に関する彼の論文は、有機体の分布が異なる自然条件に影響されるという、当時としては全く新しい考えに基づいたものであった。 また、地球の磁力の強さが極から赤道に向かって減少することを発見したのもフンボルトであった。
彼の死に際しては国葬が執り行われた。