アレクサンデル・ドゥプチェク
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アレクサンデル・ドゥプチェク (Alexander Dubček, 1921年11月27日-1992年11月7日)は、チェコスロヴァキア共産党第一書記(1968年1月-1969年4月)。
[編集] 来歴・人物
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スロヴァキア・ウフロベツ生まれ。1925年ソ連に移住し、キルギスタンのビシュケクおよびゴーリキー市(現在のニジニ・ノヴゴロド市)で過ごし、1938年に帰国。1939年、スロヴァキア共産党に入党。反ファシズム闘争に加わる。戦後、トレンチーンの党書記局に勤務し、1955年-1958年、モスクワに留学。1963年、カロル・バツィーレクに代わってスロヴァキア共産党第一書記に就任。
1968年にチェコスロヴァキア共産党第一書記に選出され、「人間の顔をした社会主義」を掲げた「プラハの春」と呼ばれる改革運動を実施する。8月20日のワルシャワ条約機構軍による軍事介入後も引き続き第一書記の地位に留まったが、ソ連および党内保守派の圧力によって1969年4月17日の党中央委員会総会で辞任を余儀なくされ、連邦議会議長という閑職に追いやられる。その後、1970年1月トルコ駐在大使に任命されるが、6月に解任、党籍剥奪処分を受け、秘密警察の監視下でブラティスラヴァ近郊の営林署での勤務生活を強いられる。年金生活に入った後の1988年にはボローニャ大学での名誉博士号授与のためにイタリアを訪問し、失脚後初めて自らの政治見解をウニタ紙上で公表した。
1989年のビロード革命では、ヴァーツラフ・ハヴェルの率いる市民フォーラムを支援し、大規模な民主化デモが展開されていた首都プラハのヴァーツラフ広場に面したバルコニーに登場して大きな歓声を受けた。これはビロード革命の成功とドゥプチェク自身の復権を後押しし、共産党体制が倒れた同年12月に連邦議会議長として政界に復帰した。
1992年スロヴァキア社会民主党(SSDS)党首に就任。同年の総選挙を経て、チェコスロヴァキア連邦議会議長に再選。チェコスロヴァキア解体直前の1992年9月1日の交通事故で重傷を負い、11月7日に死去。その年の終わりとともにチェコとスロヴァキアに分離する事になった。
なお、ドゥプチェクは最後までチェコ人とスロヴァキア人が協力して新しい民主国家を築く事を望み、自らの改革によって1969年に導入された連邦制が最良の体制と考えていた。そのため、チェコとスロヴァキアへの完全分離による連邦解体は思っても見ない展開であり、不本意な出来事でもあった。それを見ずして突然にこの世を去った彼は、文字通りの「最後のチェコスロヴァキア人」であったと言えるだろう。
[編集] 著書
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