アンドレイ・チカチーロ
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アンドレイ・ロマノヴィッチ・チカチーロ(Andrey Romanovich Chikatilo,アンドレイ・チカティロ 1936年10月16日-1994年2月14日)はソビエト連邦の連続殺人犯。推定52人を殺害した。
当時のソビエト連邦では、連続殺人は資本主義の弊害によるものといわれていたため、チカチーロの犯罪について民警(ソ連の文民警察組織)内部で連続殺人との認識がなく、組織立った捜査が行われなかった。また、チカチーロの出張先で犯行が行なわれたことにより、犯行範囲は事実上ソ連全土に及んだため、いたずらに犠牲者を増やす結果となった。最終的にはKGBの捜査介入が行なわれて逮捕されるに至った。
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[編集] 略歴
ウクライナに生まれる。アンドレイにはステパンという兄がいたが、ウクライナを覆っていた飢餓のなかで餓死し、その死体は餓えた村人たちが食べてしまったと母親に聞かされて育つ(但し、ステパンに関する公式記録がないため、偽証説とする向きもある)。
父親が第二次世界大戦で徴兵され、ドイツ軍の捕虜になったことから生活が窮乏する。
学校では、極度の近眼となよなよした感じから、同級生からいじめのターゲットになった。読書を愛し、特にソ連の若きパルチザンがドイツ兵を捕らえ、森のなかで虐待する小説に傾倒していた。また、眼鏡をかけることを嫌ったチカチーロは、結局30歳の時に自動車免許を取得するまで眼鏡を購入しなかった。
名門モスクワ大学法学部の受験に失敗。本人によれば「成績は良かったのに、父がドイツ軍の捕虜になったばかりに不合格になった」という。その後は工業専門学校へ進む。
兵役を経て、1960年から、電気技師として働き始める。このころ、自分の性的不能に気がつく。女性と無理矢理関係を結ぼうとするが、激しい抵抗にあい失敗。しかし、相手の抵抗に興奮し射精するという経験をする。これがきっかけで性交よりも相手の抵抗に性的興奮を感じるようになる。
1963年妹の薦めで結婚。二児の父となる。また、このころにソ連共産党へ入党を果たす。
電気技師として働くかたわら、大学進学の夢を捨てていなかった彼は、社会的な地位の向上も目指して国立ロストフ大学教養学部通信課程へ入学。ロシア文学を専攻して卒業した。同時に教員資格を取得したチカチーロは1971年から1981年まで小学校や職業訓練学校の教師を務めていたが、性器をいじる癖や夜尿症があり、異臭がするという理由で生徒に馬鹿にされていた。また、チカチーロ自身、教壇に立っても極度のあがり性で子供たちをまったく指導できず、担当クラスを学級崩壊に陥らせていたため、教師としては全く不適格であった。教師時代、数度の猥褻事件をおこしている。
[編集] 殺人
1978年、9歳の女児を強姦。発覚を恐れて生きたまま凍った川に遺棄。これが初めての殺人と見られている。この事件では、無実の男性が逮捕されて銃殺刑に処せられている。
1981年9月、教職を解雇され、国営工場の資材調達部員に転職。これを期に犯行がエスカレートし、男女を問わず襲うようになる。また、遺体を切断し、一部を持ち去るようになる。
1984年、ロストフ・ナ・ドヌー市内で女性への迷惑行為で地元民警に逮捕される。勤務先での窃盗行為で3ヶ月間収監され、共産党から除名される。当時のソビエト連邦はチカチーロの残した証拠の分析能力に欠けていたため、殺人での立件は行われなかった。
1985年、出張先のモスクワ市郊外で殺人を犯す。この事件をきっかけに、KGBの国内部門が捜査に乗り出し、捜査官が派遣される。
1986年~1988年、陸軍まで動員された大規模パトロールが実施され、約2年間、一切犯行を行なっていない。この間、チカチーロはボランティアで殺人犯の捜索に協力している。
1988年、殺人を再開する。
1990年10月、最後の犠牲者を殺害。殺害後、顔に返り血を付着させたまま現場付近を歩いていたチカチーロが警察官の目にとまる。民警が彼の勤務記録を調べた結果、犯行日時と出張記録が完全に一致し、民警及びKGBの監視下に置かれる。11月、逮捕される。なお、犠牲者のなかに警察官の子女がいたことから、報復を避けるため、取り調べはKGBロストフ支部の建物で民警・KGB合同で行なわれた。
[編集] 裁判
約1年に及ぶ取り調べと精神鑑定を経て、1992年4月14日、ロストフ地方裁判所で半年に及ぶ裁判が行なわれる。裁判では、被害者家族からの暴行を防ぐため、被告席に檻が設置された。
シラミ除けのために頭を完全に剃り上げ、モスクワオリンピックのロゴ入り開襟シャツを着て現れたチカチーロは、公判の間ズボンを脱いで性器を露出させたり、法廷に持ち込んだポルノ写真を高々と掲げたり、ソ連当時の国歌を歌ったり、ウクライナ語の通訳を要求した。
さらに、「オレは妊娠している」「あたしは女なのよ」などと口走ったりするといった奇矯な振舞いや、被害者を侮辱する罵詈雑言で遺族の感情を逆撫でし、たびたび激怒した裁判長に退廷を命ぜられる。また、弁護を担当した国選弁護士も、チカチーロの態度を厳しく批判した。
1992年10月14日、52件の殺人罪で有罪判決、死刑を宣告される。チカチーロは判決を不服として上告。
1994年2月14日、モスクワ郊外の刑務所で銃殺刑に処せられる。享年57。
[編集] 関連項目
- ロシア52人虐殺犯/チカチーロ - 捜査側を主人公に据えた映画
- 「バキ」-この漫画に登場するスペックは彼がモデルである
[編集] 関連書籍
- 『子供たちは森に消えた』 ロバート・カレン著 広瀬順弘訳 早川書房 (ISBN 4152078235)
- 『撫で肩の男 ロシアの殺人鬼を追って』 リチャード・ラウリー著 染田屋茂訳 文藝春秋 (ISBN 4163482806)
- 『52人を殺した男 異常性犯罪者の欲望と心理』 M・クリヴィッチ、O・オルギン著 小田晋訳 イースト・プレス (ISBN 4900568872)
- 『ロシアの死神』 ピーター・コンラディ著 河合修治訳 中央アート出版社 (ISBN 488639678X)
- 『異常快楽殺人』 平山夢明著 角川ホラー文庫 (ISBN 4043486014)