イッザト・イブラーヒーム
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イッザト・イブラーヒーム・アッ=ドゥーリー(عزت ابراهيم الدوري ‘Izzat Ibrāhīm al-Dūrī, 1942年7月1日 - )は、イラクの政治家で、元イラク革命指導評議会副議長。日本語の報道では「イブラヒム (元) 副議長」とされることが多い。 別名「アブー・ブライス」 軍階級は陸軍中将。 なお、彼自身は入隊経験は無い。
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[編集] 生い立ち
イッザト・イブラーヒームはティクリート近郊の村アッ=ドゥールの貧しい氷屋のスーフィーの家庭に生まれた。幼少時から父親の手伝いをして、ろくに学校には行けなかった。そのためコーラン以外の書物は読んだことがなかったと言われる。
[編集] バアス党政権時代
1968年に、サッダーム・フセインおよびターハー・ヤースィーン・ラマダーン率いるバアス党勢力によるクーデターに参加し、以後、フセイン革命指導評議会(RCC)副議長(のち大統領)の右腕としてバアス党の主要な地位を占めてきた。バクル政権時代から内相、農相などを歴任。
[編集] 政権No2へ
1979年、サッダームの大統領就任と同時にRCC副議長・バアス党地域指導部副書記長・バアス党民族指導部副書記長に就任。また、党の北部局副議長に就任した際には、クルド人の独立運動を弾圧し、町や村の破壊、大量処刑に関わったとされる。RCC副議長として、イラン・イラク戦争、クウェート侵攻の開戦、決定に関与。1991年の湾岸戦争ではサウジアラビアの町ハフジ占領を指揮したとされる。また、湾岸戦争後のシーア派・クルド人の反政府蜂起の鎮圧を指揮。
特にイラク南部の湿地帯に住むマーシュ・アラブ人の住む湿地を干上がらせて環境を破壊し、反乱に加担したマーシュ・アラブ人への懲罰措置を実行したとされる。南部の反乱を鎮圧させると北部に向かい今度は、クルド人の反乱を戦闘ヘリでの空からの銃撃等で徹底的に押さえ込み、「ハラブジャの出来事を忘れたなら、我々は同じ活動を繰り返す準備が出来ている」と語ったとされ、暗にハラブジャでの化学兵器による住民殺害事件に触れて警告した。また、一時期軍政下に置かれたキルクークの知事に任命された。なお、この時期には国軍副最高司令官にも就任しており、まさに政権序列第2位として権力の絶頂を極めた。
1982年7月、「フセイン大統領失脚説」が西側メディアで流された際、「イラク政権はフセイン派とナンバー2のイブラヒム派に分裂しているのではないか?」などという憶測報道がなされた。
1995年にはサッダームの長男ウダイ・サッダーム・フセインとイブラーヒームの娘が結婚。(後に離婚)一時期にしろ、サッダームと姻戚関係になった。 政権第2の実力者になったイブラーヒームは、同じ故郷の出身、ドゥール閥の人間とスーフィー信者を党、治安・情報機関、国軍の幹部に数多く登用して自らの権力基盤を固めた。
1998年のアメリカによる空爆と2003年のイラク戦争の際には、国軍北部軍管区司令官に任命された。
2002年のベイルートで開かれたアラブ首脳会議ではサッダームの代理として出席。クウェート外相、サウジアラビア皇太子と会談し、湾岸戦争後に険悪化した両国との「和解」を演出した。またクウェートの主権を認めると発言して従来の政権の見解である「クウェートはイラクの領土」という見方を修正する発言をした。同年9月のバグダードでのアラブ議会連盟の会議においてアラブ諸国に対して「アメリカ・シオニストの脅威」に対抗するよう呼びかけた。 イラク戦争開戦直前の2003年3月、ドーハで開かれたイスラム諸国会議機構に出席、アメリカ軍の駐留を認めた湾岸諸国を非難、特にクウェートを集中的に批判し、これに怒った同国代表が反論すると「黙れ猿!」と罵倒した。
[編集] イスラーム政策
イッザト・イブラーヒームは世俗的とされるフセイン政権の中でも熱心なムスリムと見られていた。1993年に、政権は彼の指導の下に信仰キャンペーン(アル=ハムラ・アル=イマーニーヤ)を展開。ワクフ・宗教省が全国のモスクを監督し、独自のイスラーム法学者を任命。その一方信徒らによる独自の礼拝、モスクの修理やワクフ管理を認めるなど、スンナ派ムスリムに多くの自由裁量を与え、体制による締め付けを緩和。この結果スンナ派反体制派の動きは大幅に減少・自然消滅した。また、アラブ・イスラーム諸国のイスラーム指導者をバグダードに集めて会議を開き、自ら会を主催した。ちなみに反体制派幹部の一人イヤード・アッラーウィーによるとこの会議にアルカーイダのアイマン・ザワーヒリーが密かに出席していたとし、ここで米国に対するテロ計画を謀議したと語ったが、真偽のほどは不明である。
しかし、一定の自由が与えられたのはスンナ派だけであり、シーア派に対しては徹底した監視・弾圧を加えた。例えば、シーア派指導者の拘束・暗殺、恣意的な同派信徒の逮捕、独自儀式の禁止、イスラーム教育への干渉などである。伝えられるところでは、シーア派のモスクには常に政権の治安・情報機関の職員が入り込み監視していたという。 その反動からか、イッザト・イブラーヒームは1998年に行事の為カルバラーを訪れた際に暗殺未遂に遭っている。
[編集] 政権崩壊後
2003年のイラク戦争で政権が崩壊すると、イラク北部から隣国シリアに、複数の政権幹部と共に亡命したとされる。イブラーヒームはそこで、イラク・バアス党の組織を再編成し、イラク国内で活動するバアス党残党勢力の反米ゲリラ活動を指揮しているされる。2003年には党地域指導部書記長の職に、サッダーム拘束後は、「大統領代行」に任命されたという声明が出された。現在はバアス党残党系の武装組織を束ねた「イラク・レジスタンス評議会」議長という立場にあるといわれる。米国防総省筋によると、2003年10月、武装組織「アンサール・アル=イスラーム」(現アンサール・アル・スンナ軍)の捕らえられたメンバーによるとイブラーヒームが対米攻撃活動を指揮、資金提供をしていると証言したとされ、また、イラク・バアス党残党勢力と反米イスラーム主義組織との仲介・共闘も行ったとされる。
2003年9月に拘束されたとの報道がなされたが、その後米当局が否定。米軍は11月にイッザト・イブラーヒームの拘束・殺害に関する情報に1000万ドルの賞金を賭けた。同月、米軍は投降への圧力を掛けるためにイブラーヒームの妻と娘をサーマッラーで逮捕。また数人の親族と、彼の主治医の息子を矢継ぎ早に拘束した。12月に投降したとの報道が流れたがこれも誤報だった。 2004年には潜伏してると見られていたイラク北部を集中的に捜索し、1月に個人的側近や金庫番、兄弟、甥などが次々に拘束されたが、ついに本人を捕らえることはできず、3月に潜伏先を知ってるいるとされる3人を拘束したが、何の手がかりは得られずにすぐに釈放された。 2004年9月には、当時のイラク暫定政府の閣僚によりティクリートの病院で拘束されたと発表されたが、後に別人を誤って逮捕したとして否定された。
時折、アラブメディアとのインタビューに答えて健在ぶりをアピール。2005年11月、イラク・バアス党系ウェブサイトが、外国通信社に電子メールで、「死亡した」との声明を送ってきたが、その後、同サイトで否定声明が出された。
2006年3月、アルジャジーラがイブラーヒームのものとされる音声メッセージを放送。アラブ諸国にイラクのスンナ派武装勢力を支持するよう訴えた。
だが、サッダーム本人は、このイブラーヒームの声明を苦々しく思っていたらしく、「アル=ファイハア・テレビ」との獄中インタビューにて、政権在任中にイブラーヒームがバアス党女性組織の大会で、サッダームの許可無く勝手に演説したことと比較して、2006年3月の音声メッセージについても、「私の認可も得ずに演説している」「自分(サッダーム)の代理としてでは無く、さも自分が(バアス党の)代表かのように喋っている」と不満を表明。また、「国の予算(旧政権下に貯めてあった資金)を勝手に使い、イラクの人々のモスクや学校を爆破している。」と非難して、イブラーヒームを変節漢とまで呼び、「奴の舌と耳を切り落としてやりたい。それでも奴が手話を使って演説するなら、両手を切り落として、あの変節漢を追い払う」とまで語った。
7月、英紙タイムとの書面インタビューに応じ、「イラクの武装勢力の80%が旧イラク国軍の兵士だ」と語り、外国人戦闘員の人数は僅かだと述べた。11月、一部イラクのスンナ派政治家らによると、イブラーヒームが配下の武装勢力に戦闘停止を命じたと語ったが真偽は不明。
サッダーム・フセイン処刑後、イラク・バアス党系ウェブサイトにて「イッザト・イブラーヒームがイラクの合法的な大統領及び国軍最高司令官に選出された」との声明が出された。
[編集] 健康問題
イッザト・イブラーヒームは数年前から白血病を患い、処置のため6カ月ごと輸血を受けていたとされる。1999年治療のためオーストリアのウィーンに滞在中に同国にいた反体制派がオーストリア政府に彼を「人道に対する罪」で逮捕するよう訴えたため、慌てて帰国した経緯がある。
[編集] 家族
妻はジャウハル・マジード・アッ=ドゥーリー、サンドゥス・アブドゥッ=ガフール、ニザール・アル=ラビーイー、インティッサール・アル=ウバイディーの全部で4人。 実子は何人かは不明。子沢山だったらしく、サッダームの主治医を務めたアラー・バシール氏によると「子供の人数が多すぎて、彼自身、名前や顔を覚えていない」と語っている。 ちなみに一番年下の妻は、イブラーヒームが見初めて結婚した。