ターハー・ヤースィーン・ラマダーン
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ターハー・ヤースィーン・ラマダーン・アッ=ジズラーウィー(طه ياسين رمضان الجزراوي Tāhā Yāsīn Ramadān al-Jizrāwī, 1938年- 2007年3月20日)は、イラクの政治家で、 元副大統領(1991年-2003年)。日本の報道等では「ラマダン(元)副大統領」と呼ばれることが一般的である。
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[編集] 生い立ち
1938年頃、イラク北部の都市モースルの農家の家に生まれる。 高校卒業後、同地で銀行員として働いていた。
1956年、陸軍准士官時代に当時、非合法政党であったバアス党に入党し、そこでサッダーム・フセインに出会う。1960年代中頃、バアス党の宣伝活動を理由にナーシリーヤで数年間投獄されたことがある。
[編集] バアス党政権
1968年のバアス党によるクーデター後、革命指導評議会メンバーに任命されている。翌年には党地域指導部メンバーに任命された。1970年のアフマド・ハサン・アル=バクル政権で産業鉱工業相に就任、銀行員だった経歴から当時、革命指導評議会副議長だったサッダームの他の側近よりは経済政策に精通し、多くの提言を行った。
しかし、伝えられる所では大臣就任後、ラマダーンは周囲に「自分は工業については何も知らない。ただ、たしかなことは国のために働かない人間は処刑されるということだ」と語ったと言う。またバクル政権の転覆を計った一部将校のクーデター未遂事件起きると、特別裁判所の裁判長として、クーデター実行犯に死刑判決を下した。
[編集] サッダーム・フセイン政権
1979年にサッダーム・フセインが大統領に就任すると、ラマダーンは第一副首相とバアス党の民兵組織「人民軍」司令官に任命される。 この年に開かれたバアス党臨時会議で最初に演壇に立ち、党内部に裏切り物がいると語り、反サッダーム派や党内の政敵に対する粛清に協力した。 1988年~1991年には、北部のクルド人と南部のシーア派・アラブ人の反政府蜂起の鎮圧を指揮、その際に虐殺行為を行ったとされている。
1991年には副大統領に任命されたが、同時に自身の権力基盤である人民軍は解体された。 1997年に1回、1999年には2回暗殺未遂に遭ったが、その度に乗り切っている。ラマダーンは、大統領の代理として、しばしば諸外国や国際会議に出席した。また、対外的にはサッダーム政権内の強硬派と見られていた。
湾岸戦争終結直後には「勝利したのはイラクだ」と発言し、1998年にはアルカーイダのNO2アイマン・ザワーヒリーをイラクに招待すると語りアメリカを挑発。 また、同時多発テロ直後には「戦いの場をアメリカ本土に拡大するべきだ。」「イラクの若者は人間爆弾に志願するだろう。アメリカを吹き飛ばすためなら」と語っている。ブッシュ政権についても「ブッシュはシオニスト。ユダヤ人よりシオニストらしいシオニストだ。」延べ、またイラク戦争開戦前、サッダーム・フセインの亡命を提案したサウジアラビアのサウード外相に「貴様はアメリカの手先だ」「地獄に落ちろ!」と怒鳴りつけたと言われる。
イラク戦争では、外国記者団の前で強気の発言を繰り帰し、アラブ諸国民にアメリカに対する「ジハード」参加を呼びかけ、アラブ人義勇兵の責任者となった。バグダードが陥落すると身を隠し、潜伏中のサッダームにバアス党残党勢力との間の「連絡役」に任命されたとされる。2003年8月19日には故郷モースルの潜伏先でクルド愛国同盟の民兵により拘束され、アメリカ軍に引き渡された。
[編集] ドゥジャイル事件裁判
2004年、ラマダーンはイラク特別法廷(現・高等法廷)により「人道に対する罪」などの容疑で訴追される。2005年には、イラク中部の村ドゥジャイルで起きたサッダーム暗殺未遂事件の報復として、住民148人を拘束、取調べの末殺害したとされる事件(ドゥジャイル事件)に関わったとして、同事件を審理するイラク高等法廷に被告として出廷した。この事件でラマダーンは当時、第一副首相として暗殺事件に関わったと見られる住民の家屋、暗殺犯一味が逃れたと見られる村の果樹園の恣意的破壊、そして配下の人民軍を使っての不当逮捕と逮捕した住民の南部の砂漠地帯の収容所への移送を指示した容疑に問われた。
ラマダーンは一連の容疑を全面否認して無罪を主張、検察側と鋭く対立。自分に不利な証言をした証人に対して怒鳴りつける場面もあった。弁護側はラマダーンが政権内で「経済政策」にしか権限が与えられておらず、治安問題は管轄外だと主張した。
2006年11月、高等法廷はラマダーンに対し、「人道に対する罪」で終身禁固刑の判決を下した。12月の控訴審では、「刑が軽すぎる」との判断が下され、2007年2月12日、二審において、ラマダーンに対して絞首刑による死刑判決を言い渡した。判決に対してラマダーンは「私はアッラーに誓って無実潔白だ。私が頼りにするアッラーよ。私に不正を下した者に復讐されんことを」と語った。
3月20日、夜明け前にラマダーンは米軍からイラク当局に身柄を引き渡され、刑執行所に連行された。死刑立会人によると、執行前、ラマダーンは明らかに怯えた様子で、周囲に後悔の念を話したという。死刑に立ち会った個人弁護士によると「穏やかで冷静だった。彼は自分の家族と友人のために一緒に祈るように頼んだ。死を恐れてる様子は無かった」と話している。
弁護士に遺書を手渡すと、刑台に向かい、刑執行直前にシャハーダを唱えた。午前3時5分、刑が執行された。 享年69歳だった。
その後、弁護士に衣服と遺品が手渡された。ラマダーンの息子アフマド氏によると遺体は故郷のモースルでは無く、ティクリートに埋葬されると語った。 21日、ティクリート近郊アル=アウジャにあるサッダームらも埋葬されている墓地に葬られた。
[編集] 人物像
ラマダーンは、サッダームに絶対的忠誠心を持っている政権幹部の一人であった。 例えば、サッダームが当時、自らの倫理基準に基づき閣僚に対して一定の体重制限を命じた際には、ラマダーンは忠実にそれを実行し、常に体重を27キロ[要出典]に維持していたとされる。 このため、サッダームの信任も厚く、1980年代後半に経済政策を巡り、サッダームと衝突した際も解任されることは無かった。
[編集] 出典
(1) news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/2333287.stm Last Updated: Monday 12 February 2007
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | イラクの政治家 | 1938年生 | 2007年没