ウィーン国立歌劇場
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ウィーン国立歌劇場(ウィーンこくりつかげきじょう、ドイツ語:Wiener Staatsoper ヴィーナー シュターツオーパー、ドイツ語の原音から「ヴィーン~」とも→ ヴ(Vの日本語表記)参照)はオーストリアのウィーンにある歌劇場。欧州で最も重要な歌劇場のひとつである。1920年まではウィーン宮廷歌劇場と呼ばれた。劇場はウィーンの中心部、ケルントナー通りとリング通りの交点に面して建てられている。
ネオ・ロマンティック様式の建屋は建築家エドゥアルト・ファン・デア・ニュル(意匠)とアウグスト・シカート・フォン・シカーズブルク(構造)によるもの。建設当時はひどく批判されたが、1869年5月25日にモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の上演でこけら落しを行った。
第二次世界大戦中の1945年3月12日、連合軍の爆撃により舞台が破壊され、建物は火災に見舞われた。しかしモーリツ・フォン・シュヴァイエのフレスコ画のあるホワイエと正面階段、連廊、それに喫茶室は焼失を免れた。120作のオペラ上演のための舞台装置と大小道具のほぼ全て、15万着もの衣装が失われた。このため国立歌劇場はアン・デア・ウィーン劇場およびフォルクスオーパーを仮の拠点とした。また、従来ウィーンの上演と連携したプロダクションを上演していたザルツブルク音楽祭は、これにより独自のプロダクションを作るようになった。
再建した客席数2200名の劇場は1955年11月5日、ベーム指揮、ベートーヴェンの『フィデリオ』の上演で活動再開した。
この歌劇場で活躍した数多くの高名な指揮者の一人に、作曲家マーラー(1860-1911)がいる。任期の間、マーラーはアナ・バール・ミルデンブルク(1872-1947)、セルマ・クルツ(1874-1833)、レオ・スレザーク(1873-1946)ら新しい世代の歌手を積極的に登用し、また舞台デザイナーを雇用して伝統的で豪華な舞台装置をモダニズムやユーゲントシュティール風の様式の簡素なものに置き換えた。さらに上演中に客席の照明を落とす慣行を作ったのもマーラーである。これは当初は聴衆の不評を買ったものの、後継者らはこの改革をそのまま続けた。
そのほかの高名な指揮者としては、リヒター、ヴァインガルトナー、R.シュトラウス、クラウス、フルトヴェングラー、ワルター、ベーム、カラヤン、マゼール、アバド、ムーティらがいる。
カラヤンが芸術監督(1956-1964)に就任するまで、ウィーン国立歌劇場は契約歌手のみによる上演を行ってきたが、カラヤンは客演歌手を招き原語上演する方針を導入した。
歌劇場ではオペラやバレエの上演のほか、何十年にもわたって上流階級によるオペラ座舞踏会にも使用されてきた。
2002年からはアジア人として初めて小澤征爾が音楽監督に就任、任期は2010年までである。
[編集] 関連項目
- ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 - 世界随一の実績と知名度を誇る名門楽団。国立歌劇場専属オーケストラである、ヴィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーによる自主運営団体である。
[編集] 外部リンク
- ウィーン国立歌劇場(ドイツ語、英語、日本語)
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