ヘルベルト・フォン・カラヤン
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ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan、1908年4月5日 - 1989年7月16日)は、オーストリアの指揮者・鍵盤楽器奏者(チェンバロ・オルガン・ピアノ)。1955年よりヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務め、一時期それと併せてヴィーン国立歌劇場の芸術監督の地位にもあったことなどから、楽壇の「帝王」と呼ばれた。20世紀後半のクラシック界のみならず世界中で最もよく知られた巨匠(マエストロ)である。
目次 |
[編集] カラヤンの生涯
ヘルベルト・フォン・カラヤンは1908年にオーストリア・ハンガリー帝国(当時。現在のオーストリア共和国ザルツブルク州)のザルツブルクで貴族の子として生まれた。彼の先祖は、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)に仕えたギリシャ人のカラヤニス家(Karaiannis,Caragianni)であると言われているが、ギリシャ化したアルメニア人だという説もある。カラヤンのカラはテュルク語で「黒」を意味する。バルカン言語地域ではその語はないため、アナトリアの滅亡したキリキア・アルメニア王国からのアルメニア系亡命者とも考えられる。 なお、Wikipedia英語版では「アルーマニア人」(中世の東ローマ帝国時代にギリシャ北部、マケドニアなどの山岳部に住んでいた、ラテン語系統の言語を話す少数民族。「ヴラフ人」とも呼ばれ、ルーマニア人の先祖ではないかとも言われる)とされている。カラヤニス家は、15世紀にビザンティン帝国がオスマン帝国に滅ぼされた際にオーストリアへ移住したのだと言う。ただしカラヤン自身は、自らがオーストリア人である事を強く自認していた。
カラヤンはザルツブルクのモーツァルテウム音楽院と、ウィーンの音楽大学で学んだ後、親の買い上げたオーケストラでザルツブルクでデビュー。ドイツのウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。1938年のベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得ると共に、イタリアのミラノ・スカラ座でオペラを指揮することとなった。 1946年、カラヤンはウィーン・フィルとの戦後初の演奏会を前に、戦時中ナチスの党員(*注)であったことを理由に、ソ連の占領軍によって公開演奏停止処分を受けてしまう。しかし翌1947年には再び処分保留となった。1948年、ウィーン交響楽団の首席指揮者、明くる1949年、ウィーン楽友協会の音楽監督に就任。彼の本格的キャリアはこのころより始まった。
また、この前より、イギリスのレコード会社EMIの録音プロデューサーのウォルター・レッグの元で、フィルハーモニア管弦楽団との演奏活動およびレコード録音も盛んに行うようになった。
1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭の主要な指揮者として抜擢される。しかし、翌年には音楽祭を主催するヴィーラント・ワーグナーと、演出を巡って仲たがいしてしまう。この後終生、バイロイトのオケピットに戻る事はなかった。
1954年ドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーの急逝にともない、翌1955年カラヤンは、ついにヨーロッパ楽壇の頂点ともいえるベルリン・フィルの首席指揮者兼芸術総監督の地位に登りつめた。(なお1989年まで34年もの長期間この地位にとどまった)。1957年には同楽団と初の日本演奏旅行を行う(カラヤン自身は1954年NHK交響楽団を指揮するため単身来日していた)。
1956年から1964年まではウィーン国立歌劇場の芸術監督を勤めたが、オペラ劇団員のストライキをめぐり、保守的で聴衆に受けない監督のエーゴン・ヒルベルトとの衝突した。
このころから健康問題の不調に悩まされるようになったが、それにもかかわらず世界中で夥しい回数の演奏旅行を行った。(多い年には一年に340回以上もの演奏会を行ったという)。1965年には映画監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾーとともにコスモテル社を設立して、クラシック音楽の映像化事業にも着手している。
さらに1967年には、自らの理想に沿うワーグナーのオペラの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を始めた。さらに1972年には、ベルリン・フィルとともに3度のコンサートを行い、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭をも創設し、自ら音楽監督に就任した。
1982年、自身の映像制作会社・テレモンディアルをモンテカルロに設立。ベートーヴェン交響曲全集をはじめとする、主要レパートリーの映像化にも着手した。1983年、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団を巡り、加入を認めないベルリン・フィルハーモニーと対立、激しい軋轢は新聞種にもなり、ベルリン・フィルの芸術監督辞任の噂もささやかれたが、翌年和解に至る(結局マイヤーは自ら退団した)。晩年を迎えたカラヤンはこの騒動の後、ベルリン・フィルとの離反を強め、もう一つのヨーロッパを代表する楽団であるウィーン・フィルとの結びつきをより深めていく事になる。
1988年、ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』は、『お金の魔術師』というタイトルでカラヤン批判の特集記事を組んだ。その内容とは、カラヤンの側近がカラヤンとベルリン・フィルの台湾への演奏旅行の条件として法外な出演料と、カラヤンとウィーン・フィルとの演奏フィルムの購入を台湾側に要求した、というものだった。このスキャンダルとカラヤンのベルリンでの演奏回数が減っていたという事情も手伝ってカラヤンへの批判が噴出してしまう。ベルリン・フィルやドイツの野党からも退任を求める声が高まった。
翌1989年4月24日(ウィーン・フィルとの演奏会(急逝によって最後の演奏会となった)出演の翌日に、健康上の理由でベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任した。 その3ヵ月後、ザルツブルク近郊にあるアニフの自宅でソニーの大賀典雄社長(現在は名誉会長)との会談中に、心不全により死去した。ちなみに、この突然の死がなければ、ドイツ・グラモフォンとの長年の契約を解消し、ソニーと新しい契約を結び、ウィーン・フィルと自身のレパートリーの新録音・再録音に着手する予定だった、と言われている。
なお、当時のベルリン・フィルが、1982年ごろまで男性団員のみという原則を固守した理由はいくつかあるが、カラヤン時代のハードなスケジュールにもその一因があったようだ。(女性楽員が妊娠して産休をとるとローテーションが必要となり、それに同等のベルリン・フィルのサウンドを持った者を臨時で雇う事は困難であった)。
- 注:カラヤンは1933年4月8日、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法な極右政党だったナチスへの入党手続きをとった。ナチスの党員簿によると最初の入党後カラヤンは行方不明扱いとされ最初の党員番号は抹消されており、同年5月1日にウルムで再入党している。戦後の非ナチ化審理の際、カラヤンは1935年、アーヘン市立歌劇場のポスト就任と同時に入党と申告しているが、これは虚偽申告と断定せざるをえず、なぜ非ナチ化委員会でカラヤンの申告が不問にされたかは謎に包まれている。(ただし、最近刊行されたリチャード・オズボーン著の伝記では「戦後の時代に誤った情報が多く流された」とされており、議論の前提となる資料に多くの誤りがあったと述べられている)。
[編集] カラヤンの音楽
ヘルベルト・フォン・カラヤンはオーケストラに合奏の完璧な正確さを要求し、音を徹底的に磨き上げることによって聴衆に陶酔感をもたらせ、さらにはダイナミズムと洗練さを同時に追求するスタイルで一世を風靡した現代的指揮者の代表である。30代の時に務めた市民オーケストラでは、あまりの完璧主義に楽団員が辟易し、コンサートマスターから暗殺計画を持ち出されたほどだと言われる。こうした音楽傾向が一部の保守的な評論家から、「音楽が大衆に媚びている」「音楽のセールスマン」「精神性が微塵も感じられない」等と批判される事もあった。しかし彼の正確さと完璧さの追求は、LP時代から「カラヤンのLPは買っても決して裏切られない」という信頼感につながり、そのレコード録音の多さやコマーシャリズムと相まって世界的に熱狂的なカラヤン・ファンを擁するに至った。
クラシック音楽としては珍しいグランプリ賞(1962年のベートーヴェン交響曲全集、1963年ブラームス交響曲全集、1974年新ウィーン派管弦楽集や1982年マーラーの交響曲9番など多数)を受けたりとセンセーショナルな活動を見せた。また、1970年にワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の世界初のステレオによるスタジオ録音を、東西ドイツ統一前のドレスデンで行った事もある。(ただし、これはサー・ジョン・バルビローリが振るはずだったものらしい)。又映像作品に取り組んだりと、積極的に新しい分野を開拓していった。
彼の音楽的特徴はレガートの徹底した使用により流麗さを醸し出し、高弦を鋭くさせることによって輝かしさを実現し(1960年代後半から)コントラバスを10人ないし12人と大型演奏にすることにより、オーケストラの音響的ダイナミズムと、室内楽的精緻さという相反する要素の両立を実現した。つまり、どんなに金管が鳴っていても、内声や弦パートがしっかり鳴っていなければならない事やベースパートがいくらか先に音を出すことなどを要求した。これにより色彩感溢れるとともに重量感のある演奏が実現され、ピラミッド型のどっしりとした造形が描かれる事となった。ライナー・ツェッペリッツ(ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者)は当時、確信をもってこう語った。「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは今だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」と。
カラヤンは、当時の同世代の指揮者としては、異例なほど広範なレパートリーを有していた。 ベートーヴェンやブラームス、R.シュトラウス、ブルックナーなどのドイツロマン派の音楽や、チャイコフスキー、あるいはモーツアルトのディヴェルティメントやセレナーデなどで特に高く評価された。それは元来カラヤンの持つ音楽性がそれらの作曲家や曲の個性と一致していたからでもある。R.シュトラウスやチャイコフスキーなどでそれは特に顕著であった。また、ドイツ・オーストリア系の指揮者には珍しく、ヴェルディやプッチーニ等のイタリアオペラ、シベリウスやグリーグなど北欧の作品も得意とし、これらについてはカラヤンに批判的な評論家達からも賞賛する声が多い。また、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンなどの新ウィーン楽派の演奏でも高い評価を得た。
彼の指揮法はダウン式で、手を振り下ろした地点で音の打点を示す、外見的にも非常に格調高いものがあった。またオーケストラは(長年鍛えられたベルリン・フィルの場合これが顕著であったが)彼の指揮の打点時のずっと後に音を出す事を心がけ、非常に重量感のある音を求めていた。楽員の集中力や陶酔力を深めるためとして目をつぶって指揮した。始め団員は大いに戸惑ったが、「じきに慣れるさ」の一言で押し通し、事実そのとおりになった。また、この独特の指揮姿がカラヤンをして、聴衆にある種のカリスマ性と神秘性を付与したのも確かであった。
又完璧主義者カラヤンは自らのイメージ作りにも独自のこだわりを持つ大変なナルシストであり、特に写真やビデオの撮影と公開にはことさらうるさかった。顔にしたたる汗を写す事すら許さず、写真も片側からの写真しか許可しなかった程だ。
映像収録の際はベルリン・フィルの団員達も音と映像を別撮りしたため、撮影が困難になり、薄毛の団員にはかつらまでかぶせられたというから、カラヤンの執念が伺える。
しかし、完璧に管理されたスタジオ収録の映像より、ライブ撮影された日本でのライブ映像や1977年の第九、1982年のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団創立100周年記念コンサートのベートーヴェン「英雄」といったコンサートの方が、実演におけるカラヤンの凄みを一層伝えるより貴重な映像記録といえよう。
カラヤンの影響は音楽面以外にもさまざまな処に現れているが、一つにはジェット機を乗り継いで世界中を飛び回って活動するという、昨今のスター指揮者の活動様式を始めた最初のひとりであった。カラヤン以前には、指揮者は一つ処でオーケストラやオペラハウスの顔をするのが普通であった。その意味でもカラヤンは現代指揮者の一典型といえよう。また自家用ジェット機を保有していて、自ら操縦し別荘などへ行っていた。愛機はファルコン10。
又ヨーロッパのオペラハウスでの原語上演は、カラヤンに始まるといわれている。それ以前はコヴェントガーデンやウィーンですらオペラの現地の言葉での翻訳上演は半ば常識であった。カラヤンの芸術監督時代のウィーン歌劇場で始められた原語上演への改革が、その後の今に至る原語上演の広まりへのさきがけとなった。
彼は指揮者の職業病ともいえる、脊椎の持病にも悩まされ続けていた。生涯二度もの大手術をした。下記参考文献中エンドラー『カラヤンの生涯』で初めて明らかにされたが、1978年の脳梗塞(「家庭交響曲」のリハーサル中、落とした指揮棒を取ろうとして指揮台から落ちたが発作の原因であった)等の体調不良が追い討ちをかけた。その晩年、体のコントロールを失うことにもなった。カラヤンは指揮台の柵につけられた、サドル状の特製の椅子に座って指揮し(歩くのもきつく、しばしば自虐的な冗談を口にした)、長年目をつぶって指揮していたが、83年頃からは目を開いて指揮することが多くなった。(オペラや合唱曲を指揮する時は、全盛期でも目を開けて指揮しており、残された映像で確認できる)。
晩年の演奏や録音については衰えを指摘する向きもあるが、記録に対する執念はそれ以前にも増し、以前は決して相性のよいとはいえなかったマーラーの曲における交響曲第9番82年の凄みのある表現をはじめ、88年のブルックナーの第8番、ザルツブルクにおけるオペラ映像などは、その並外れた正確さを土台にした解釈の普遍性と透明度で、今なお余人の追随を許さない独自の境地に達している。
[編集] 日本とカラヤン
カラヤンと日本との関係は歴史は深く、1954年に初来日以降、11回日本を訪問している。日本でのカラヤンの人気もすさまじく、カラヤンは指揮者の代名詞としてクラシックファンのみならず一般大衆もその認知するところであった。一時期、レコード雑誌のクラシック音楽のレコードベスト30を決定する投票で、何とカラヤンのレコードが28枚も占めた程であった。(残る2枚は、定番の一つであるイ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディの「四季」)。
彼は、東京・赤坂にある日本有数の音楽ホールである、サントリーホールの建設にも設計の段階から携わっている(このホールは、カラヤンとベルリン・フィルの本拠地であったベルリン・フィルハーモニー・ホールをモデルにしている)。その業績を称えて、サントリーホールの前(アーク森ビル)の広場が「カラヤン広場」と命名され、今日もその名を刻んでいる。もっとも、サントリーホールのオープニングを祝う来日公演は、病気でキャンセルを余儀なくされ、弟子である日本人指揮者小澤征爾に代役がゆだねられた。
[編集] カラヤンの来日公演
- NHK交響楽団
- 初来日。4月2日に到着後、2回の定期演奏会を含む15回の演奏会と2回の放送番組で指揮し、1回の対談番組に出演した。チャイコフスキーの「悲愴」のライヴ録音が現存する。この来日の経験が、後年音響等にこだわる様になったきっかけと言われている。
- ベルリン・フィル
- 1966年4月12日~5月3日。東京文化会館などで公演。
- 1970年5月8日~22日。東京文化会館、日比谷公会堂、フェスティバルホールで公演。
- 1973年10月25日~11月4日。NHKホール、フェスティバルホールで公演。
- 1977年11月6日~18日。フェスティバルホール、普門館で公演。この公演で彼がホールの音響を酷評したため、設備が一新されることとなる。
- 1979年10月16日~25日。普門館で公演。
- 70年代に日本でのカラヤン人気が最高潮に達し、聴衆をより多く入れるために5000人収容の普門館が一時期東京での公演場所となったが、あまりにも音響が悪く、聴衆もカラヤン自身も音響に失望し、改修が施される事となった。1979年公演での「第九」はNHK初のデジタル回線による生中継で、この公演のライヴ録音も発売された。またこの年の年末には、全国に通じたデジタル回線により、一連の演奏会が放送された。
- 1984年10月18日~24日。東京文化会館、普門館、ザ・シンフォニーホールで公演。
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- 10月18日 ザ・シンフォニーホール
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- モーツァルト:ディヴェルティメント第15番
- リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」
- レスピーギ:交響詩「ローマの松」
- 10月19日 ザ・シンフォニーホール
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- ドビュッシー:交響詩「海」、牧神の午後への前奏曲
- ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲
- 10月21日 東京文化会館
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- 18日の公演に同じ
- 10月22日 普門館
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- ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」、交響曲第5番「運命」
- 10月23日 普門館
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- ブラームス:交響曲第3番、交響曲第1番
- 10月24日 普門館
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- 10月19日の公演に同じ
- 10月18日のザ・シンフォニーホールでの公演が朝日放送により放送された。ソニーよりDVDが発売される旨のアナウンスがあったが、現在のところ未発売。
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- 10月28日 サントリーホール
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- リヒャルト・シュトラウス:メタモルフォーゼン、交響詩「英雄の生涯」
- 10月29日 サントリーホール
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- シューベルト:交響曲第8番「未完成」
- ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
- 10月30日 サントリーホール
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- モーツァルト:ディヴェルティメント第17番
- ブルックナー:交響曲第9番
- 1986年の来日公演は病気によりキャンセル(代役・小澤征爾)。初日の公演はS席がパーティー付きで75,000円、A席が50,000円という高額、正装にて参加という内容で話題を呼んだが、カラヤンのキャンセルによりプルミエール・コンサートと銘打たれていたが通常のコンサートとなった。
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- 4月29日 ザ・シンフォニーホール
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- モーツァルト:交響曲第29番
- チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」
- 4月30日 ザ・シンフォニーホール
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- ベートーヴェン:交響曲第4番
- ムソルグスキー~ラヴェル編:組曲「展覧会の絵」
- 5月2日 サントリーホール
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- 4月29日の公演に同じ
- 5月4日 東京文化会館
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- ベートーヴェン:交響曲第4番
- ムソルグスキー~ラヴェル編:組曲「展覧会の絵」
- 5月5日 サントリーホール
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- モーツァルト:交響曲第39番
- ブラームス:交響曲第1番
- 東京公演がNHK-FMで生放送された。
- ウィーン・フィル
- ウィーン・フィルとの来日公演はこの時だけ。1989年に予定されていた来日公演は、死によって幻となった。
[編集] CDとカラヤン
今や、音楽その他の記録媒体としてすっかり定着した感のあるCDだが、カセットなどと異なりずいぶん中途半端に思われる記録時間「74分」はカラヤンが決めた、という伝説がある。CDの開発元であるオランダのフィリップス社から記録時間はどれくらいがよいかと問われたとき、彼は「ベートーヴェンの第九が入るようにしてほしい」と要望したという。実際には、CDの直径を決める際、当時普及していたカセットテープの対角線の長さである11.5cmを主張したフィリップスと12cmを主張したソニーとで意見が大きく分かれた。前者ならば録音時間は60分、後者ならば74分録音できることになる。ソニーの重役であった大賀典雄は研究の末、74分収録できれば、たいていの交響曲及びオペラの一幕はCD一枚に収まるという結果を得た。しかし両者とも譲らず、なかなか合意に達せずいたところ、ソニーがカラヤンの上記の談話をフィリップス社に伝え、説得に成功したというのが実情であろう。
又更にはCD発売間もない頃、「カラヤンが自分の第九だけががぎりぎり収録出来るサイズに決めた」という噂が、まことしやかに囁かれた。その原因の一つはテンポが遅いことで知られた彼のライバルのカール・ベームの演奏する第九(78分40秒)が、CD二枚組で発売された為である。(その後CDの収録時間が延びたお蔭でこのCDも一枚に優に収まるようになった)。
ベルリン・フィルの楽員の談話によると、カラヤン&ベルリン・フィルのベートーヴェンの交響曲全集の売り上げは、バーンスタイン・ウィーン・フィルのそれの10倍以上あったと言われる。もっとも、バーンスタイン&ウィーン・フィルのコンビは1970年代後半からのドイツ・グラモフォン社の録音で売り上げを伸ばしてきたため、1960年代前半から市場を制覇してきたカラヤンとの比較は年代的な無理がある。
[編集] 没後のリリース
カラヤンは1989年に亡くなっているので、それ以降の新録音は当然ない。しかし、カラヤンの生前は発売が許可されなかった録音やデジタルリマスタリングを施したもの、あるいはザルツブルク音楽祭でのライヴや放送録音の発掘などで新リリースが相次いでいる。なかでも、1995年に発売された「アダージョ・カラヤン」はラテン語圏を中心に大ヒットを記録。「アダージョ・カラヤン」の大ヒットは、その続編盤やヒットに便乗したかのような亜流のCDを生み出した。また、2006年には、2006 FIFAワールドカップを記念して、これまで特典盤でのみ発表されていた「ヨーロッパ国歌集 ザ・アンセム・アルバム」がギリシャとデンマークの国歌を追加して正式にリリースされた。また、同年には1957年(ベルリン・フィル)と1959年(ウィーン・フィル)の日本公演を収めたDVDがNHKエンタープライズから正式にリリースされた。
[編集] 関連文献
- ヘルベルト・フォン・カラヤン、フランツ・エンドラー著、吉田仙太郎訳『カラヤン 自伝を語る』白水社、ISBN 4560036853
- フランツ・エンドラー著、高辻知義訳『カラヤンの生涯』(福武書店、1994年、ISBN 4828817379
- リチャード・オズボーン著、木村博江訳『ヘルベルト・フォン・カラヤン』白水社、2001年、ISBN 4560038465(上巻)ISBN 4560038473(下巻)
- ロベルト・C・バッハマン著、横田みどり訳『カラヤン―栄光の裏側に』音楽之友社、1985年、ISBN 4276217253
- ヴェルナー・テーリヒェン著、高辻知義訳『フルトヴェングラーかカラヤンか』音楽之友社、1988年、ISBN 4276217199
- ロジャー・ヴォーン著、堀内静子訳『カラヤン―帝王の光と影』時事通信社、1987年、ISBN 4788787318
- エルンスト・ホイサーマン著、猿田悳訳『カラヤン―人と芸術』東京創元社、1978年
- クラウス・ウムバッハ著『金色のソナタ』(音楽之友社訳)
- 『カラヤン 全軌跡を追う―レコーディング587タイトル完全ディスコグラフィ Ontomo mook』音楽之友社、ISBN 4276960274
[編集] 外部リンク
- ヘルベルト・フォン・カラヤン紹介ページ (英語、ドイツ語で閲覧可能)
- オーストリア百科事典(ドイツ語)
- MSNによるカラヤンの紹介(ドイツ語)
- Tribute site to Herbert von Karajan
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カテゴリ: オーストリアの指揮者 | ザルツブルク | 1908年生 | 1989年没