オットー・クレンペラー
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オットー・クレンペラー(Otto Klemperer, 1885年5月14日-1973年7月6日)はドイツ出身のユダヤ人(後にイスラエル国籍になった)指揮者。20世紀を代表する指揮者の一人とされる。
ドイツ・オーストリア圏の古典派・ロマン派から20世紀の音楽まで幅広いレパートリーを持つ。クレンペラーの音楽は晩年の録音で聴くことができるように、美しさを求めるよりも遅く厳格なテンポで楽曲の形式感・構築性を強調するスタイルでよく知られているが、若いころの録音にはまた別のアプローチも見られる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 少年期
ポーランドのヴロツワフ(当時はドイツ領ブレスラウ)に生まれる。4歳の時にハンブルクに移り、同地で少年時代を過ごす。音楽教育はハンブルク移住後、母親にピアノの手ほどきを受けた事にはじまり、その後進学した音楽院では作曲とピアノを専攻する。
[編集] ドイツ時代
22歳でマーラーの推挙を受け、プラハのドイツ歌劇場の指揮者になる。以後、ハンブルク、ストラスブール、ケルン、ヴィースバーデンの歌劇場で指揮者を務める。1919年にはケルン歌劇場の歌手ヨハンナ・ガイスラーと結婚。1924年にはベルリンフィルにデビュー、じきにベルリンでも好評を博するようになり、1927年にはウンター・デン・リンデン国立歌劇場に付属するクロル歌劇場の監督に就任する。その革新的な試みは大きな話題となるが、ドイツ経済の急速な悪化とナチスに代表されるドイツ復古主義の台頭もあり、1931年には劇場は閉鎖される。48歳の時(1933年)、ナチス・ドイツ政権樹立に伴い、スイスを経由しアメリカへ亡命する。
[編集] アメリカ時代
亡命後、クレンペラーはロサンゼルスフィルの指揮者となり、オーケストラの水準を大きく向上させる。また、各地のオーケストラに客演し、ヒューストン交響楽団の設立にも関与する。ところが、1939年に脳腫瘍に倒れたクレンペラーは、言語障害や身体のマヒといった後遺症との戦いを余儀なくされ、ロサンゼルスフィルの職も失うことになる。この病をきっかけに元来患っていた躁鬱病も悪化、奇行が目立つようになり、以後アメリカでのキャリアは完全に断たれる。
[編集] 第二次大戦後・晩年
戦後はヨーロッパに帰還を果たし、62歳(1947年)でハンガリーのブダペスト国立歌劇場の監督に就任。すぐさま劇場を充実したものとするが、3年後には社会主義リアリズムを振りかざす共産党政権と衝突して辞任する。その後、1954年(69歳)にフィルハーモニア管弦楽団の常任指揮者になったクレンペラーは、EMIから多くのレコードをリリース。これにより、忘れられていた彼の名は広く知れ渡り、巨匠として世界的な名声を得ることになる。両者の関係は、楽団が一時解散して新しいスタートを切ったあとも変わることなく続いた。
1972年に公開の演奏活動から引退、戦後から定住していたスイスのチューリッヒで翌年に亡くなった。
[編集] マーラーとの関係
マーラーはクレンペラーと知り合った時、マーラーの交響曲第2番『復活』をクレンペラーがピアノ版に編曲したスコアを見て感心し、クレンペラーの名刺に推挙の署名をした。 当時、マーラーはウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の音楽監督であり、国内外での高い知名度を誇る彼の推薦によりキャリアを開始できた事に関して、クレンペラーは後年までマーラーに感謝していたといわれている。
マーラーに私淑したクレンペラーにとって彼の作品は重要なレパートリーとなったが、すべての交響曲を演奏することはなく、例えば5番など、一部の作品については批判的な見解を洩らしている。そのためか、以前は録音等でもマーラーの直弟子だったブルーノ・ワルターに比べるとあまり評価されない傾向にあった。また、クレンペラーのマーラー演奏は煩雑な感情表現を厳しく拒否し、あくまでも古典的様式の範疇で解釈しているのが特徴で、濃厚で劇的な音楽を求める向きからはあまり好まれていない。しかしながら、彼の残した演奏は確実に一定の評価を受けている。
[編集] 逸話
クレンペラーは身長ほぼ2メートルの大男で性格は狷介にして不羈、加えて自他ともに認める女好きでもあることから、逸話の多さで知られる。また、自身の命や指揮者生命に関わる怪我や病気も数多い。躁鬱病やアメリカ時代の脳腫瘍のみならず、指揮台から転落して背骨を骨折、モントリオール空港で転んで足を複雑骨折、寝タバコがベッドに燃え移ったのを消そうとしてアルコールをばらまき全身大やけどを負うなど、様々な事故を体験しているが、そのつど復活を遂げている。
このほか、次のような逸話がある。
- リハーサルの最中、女性演奏者がクレンペラーのズボンの「社会の窓」が開いていることに気づき(中に着ていたワイシャツも出ていた)、「あの……チャックが開いています」と言ったところ、クレンペラーは「それとベートーヴェンの音楽に何か関係があるのかね?」と答えた。
- ハンブルクの指揮者時代に、クレンペラーはある女性オペラ歌手と不倫関係となり、その歌手と共演した際、不倫に怒った相手の夫(指揮者)から鞭で打たれ、客席からはブーイングが飛び出した。クレンペラーは客席に向かって「俺の音楽が聴きたくないやつは出ていけ!」と怒鳴った。
- 作曲家ヒンデミットの講演会で質疑応答になった際、クレンペラーが手を挙げた。何を質問するかと思いきや、彼は「トイレはどこだ!」と尋ねた。
- アメリカ時代、ソプラノ歌手の自宅に無理矢理押し入ろうとして、もめごとになった。その後、友人たちの尽力でサナトリウムに入ることになったが、すぐさま逃走し、この一件はニューヨーク・タイムズの一面記事となった。これら一連のスキャンダルにより、アメリカにおけるクレンペラーの評判は完全に失墜した。
[編集] オペラ指揮者として
クレンペラーは晩年の録音で大きく名を成したことから、「大器晩成」などと言われることがある。しかし彼は、ドイツ時代からすでに同時代の音楽にも精通する一流の指揮者として知られていた。
なかでもクロル歌劇場監督の時代には、独自予算がなく人員も制限された状況の中で、あまり演奏されないマイナーな曲目や同時代の音楽を積極的に演目にのせ(ただし十二音技法による音楽はその限りではなかった)、有名な曲目に対しても新しい現代的な演出を試みるなど、その果敢な試みは多くの好評と反発を呼び起こした。とくにワーグナーのオペラを上演した際には、のちにヴィーラント・ワーグナーが確立したとされる「新バイロイト様式」的な演出であったため、多くのワーグナー崇拝者から激烈な抗議を受けた。
[編集] フィルハーモニア管弦楽団との関係
この楽団はEMI(英国)のレコード作成用楽団だったが、創立者ウォルター・レッグの同社辞職に伴い、レッグは同オーケストラの解散を宣言し(オーケストラは彼個人の所有物だった)、「フィルハーモニア管弦楽団」の名称すら売却してしまった。しかし、楽員たちは「ニュー・フィルハーモニア管弦楽団」(後に名称は元に戻る)として自主運営を始め、クレンペラーも楽団の会長に就任して多くの録音を残した。
ある女性奏者は「神様の元で演奏出来て、その上給料まで戴けるなんて申し訳ない」と漏らしたという逸話も残っている。その狷介で奇人めいた性格にもかかわらず、クレンペラーは多くの音楽家から敬意を持って遇された。
[編集] 死後
クレンペラーのディスクはほとんどがEMIからのものだが、近年ではTESTAMENTレーベルが積極的にライブや放送音源をリリースしている。また、戦前/戦時中の録音は著作権切れが迫っていることもあり、いろいろなレーベルから音源の発掘・CD化が行われている。
[編集] 参考文献
- クレンペラーとの対話 ピーター・ヘイワース/編 佐藤章/訳 白水社 : ISBN 4560037477
- クレンペラー 指揮者の本懐 シュテファン・シュトンポア/編 野口剛夫/訳 春秋社 : ISBN 4393934504
- 指揮台の神々 世紀の大指揮者列伝 ルーペルト・シェトレ/著 喜多尾道冬/訳 音楽之友社 : ISBN 4276217849
- ベルリン三大歌劇場―激動の公演史 菅原透/著 アルファベータ : ISBN 4871985350