ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
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ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker)は、ドイツ・ベルリン(旧西ベルリン)の「フィルハーモニー」に本拠を置くオーケストラで、世界でもっとも有名なオーケストラの一つである。
英語表記のBerlin Philharmonic Orchestraの頭文字を取ってBPOと表記されることがある。正式な略称は、ドイツ語表記より、BPhである。
目次 |
[編集] 歴史
設立は1882年5月1日で、ベンヤミン・ビルゼが監督するオーケストラから脱退したメンバー54人が母体となり、6人のメンバーを加えて発足した。団員の平均年齢が30歳未満という若い人中心のオーケストラであった。最初の定期演奏会は1882年10月23日、フランツ・ヴェルナーの指揮で行われた。曲は、シューマン「交響曲第2番」,ワーグナー「パルシファル前奏曲」,ルービンシュタイン「ピアノ協奏曲」であった。1884年にはブラームスが自作の交響曲第3番を指揮し、ピアノ協奏曲第1番を弾いた。またドヴォルジャークも自作の指揮を行っている。1887年にヘルマン・ヴォルフがハンス・フォン・ビューローを招き、ビューローは初代の常任指揮者となった。以後、ベルリン・フィルは急速に成長し、この数年の間にハンス・リヒター、フェリックス・ヴァインガルトナー、リヒャルト・シュトラウス、グスタフ・マーラー、ヨハネス・ブラームス、エドヴァルド・グリーグらが指揮台に立っている。ビューローが1893年4月に離れた後、しばらくはリヒャルト・シュトラウス中心に客演があったと言われる。
1895年に、アルトゥール・ニキシュが常任指揮者に就く。1895年12月13日には、マーラーが自身の交響曲第2番「復活」のはじめの3楽章の初演を指揮している。
1922年1月9日にニキシュが亡くなると、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが次の常任指揮者に就任し、ヨーロッパ各地で演奏活動を行なう。フルトヴェングラーはナチスの政策を芸術家の立場から批判(ヒンデミット事件)、メンデルスゾーンを演奏会で取り上げたり、ユダヤ人演奏家への援助に尽力した。ベルリンフィルは第二次大戦中も停電・空襲が頻発するなか活動を続ける(この間の演奏会の多くはラジオ放送用にテープレコーダーで収録されていたので、60年以上経った現在でも聴くことができる。有名なものとしてはフルトヴェングラー指揮のベートーヴェンの「運命」「第七」「第九」や、E.フィッシャーのピアノによるブラームスのピアノ協奏曲第2番がある。放送局ではステレオ録音も行なっていたが、ベルリン・フィルの演奏はいまのところ確認されていない)。1944年1月には旧フィルハーモニーが爆撃で焼失し、以後、ベルリン国立歌劇場、アドミラル・パラストと会場を移しながら演奏会を行なう。フルトヴェングラーは1945年2月にスイスに亡命したが、ベルリンフィルはベルリン陥落の2週間前まで演奏会を行っていた。
戦後、フルトヴェングラーの非ナチ化裁判が行なわれることとなり、その終了まで指揮活動を禁止されたため、オーケストラはレオ・ボルヒャルトの元で活動を続けるが、1945年8月23日にボルヒャルトが不慮の死を遂げる。それを継いだのはセルジュ・チェリビダッケである。フルトヴェングラーは1947年の5月末に「歴史的復帰演奏会」でベルリンフィルと再会し、1954年末に亡くなるまで指揮を続けた。演奏会はティタニア・パラスト(映画館を改修したもので、現存)が主な会場であった。フルトヴェングラー時代のベルリンフィルのレコードは、指揮者自身が録音嫌いだったため多くはないが、戦前のSP録音や前述の戦時中ライブ録音をはじめ、シューベルトの「グレート」(1951)、シューマンの交響曲第4番(1953)等が名演奏として有名である。
1955年の初のアメリカ公演にはヘルベルト・フォン・カラヤンが同行し、そのまま4月5日に常任指揮者となる。カラヤン47歳の誕生日の日であった。カラヤンは精力的に録音活動を行った。1963年に現在の本拠地であるフィルハーモニーが完成し、落成記念演奏会は10月15日に行われた。その後、カラヤンの黄金時代が続いたが、いわゆる「ザビーネ・マイヤー事件」以降は溝が深まり、死去直前の1989年4月に辞任した。直後の常任指揮者を決める楽団員投票でクラウディオ・アバドが、有力な対抗馬で半ば「当選確実」とも一部でささやかれていたロリン・マゼールを破って就任した(敗れたマゼールはショックで1999年までの9年間、ベルリン・フィルと決別した)。任期全般でレパートリーを広げることに尽力したアバドではあったが、自身の健康面の問題で一時代を築けず、2002年のシーズン限りで辞任した。後任の最大有力候補はサイモン・ラトルとダニエル・バレンボイムの2人だったが、楽団員による投票によりラトルが常任指揮者に選ばれた。ラトルは、ベルリン・フィルを政府から完全に独立させ、また一風変わったレパートリーを取り入れて、ベルリン・フィルに新風を吹き込みつつある。
1959年から2001年まで、ヴィオラ奏者の土屋邦雄が初の日本人団員として加入している。その後、1977年に入団した安永徹が1983年から初の日本人第一コンサートマスターとなっている。 他に日本人奏者では、ファーストヴァイオリンに町田琴和、ヴィオラ首席には清水直子が在籍している。
[編集] 首席指揮者
- ハンス・フォン・ビューロー 1887年-1892年(常任指揮者)
- アルトゥール・ニキシュ 1895年-1922年(常任指揮者)
- ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 1922年-1945年(常任指揮者)
- レオ・ボルヒャルト 1945年(常任指揮者)
- セルジュ・チェリビダッケ 1945年-1952年(常任指揮者)
- ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 1952年-1954年(常任指揮者)
- ヘルベルト・フォン・カラヤン 1955年-1989年(終身指揮者・芸術監督)
- クラウディオ・アバド 1990年-2002年(首席指揮者・芸術監督)
- サイモン・ラトル 2002年-(首席指揮者・芸術監督)
[編集] 名物コンサート
[編集] ジルヴェスターコンサート
1948年12月31日に創始。翌1月1日のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートとともに全世界に中継される。
開始後数年間は大晦日(ジルヴェスター・アーベルト)と元日を行ったり戻ったりしていたが、1954年から大晦日にほぼ定着。カラヤンの初登場は1958年からである。1978年からは12月30日に同じ内容の青少年向けのコンサート「ユーゲント・コンサート」も開かれるようになった。
曲目はニューイヤー・コンサートとは違い、ポピュラーな小品は有名曲をメインとしたものであるが、アバドが音楽監督に就任してからは、毎年何かしらのテーマを持たせ、それに沿った選曲が行われるようになった。ラトル時代になって最初の2回は、アメリカのポピュラーなナンバーを並べたラトルらしい選曲だったが、あまりにも先鋭的(?)すぎたか3回目からは路線が変わり、オルフの「カルミナ・ブラーナ」を取り上げた。
- 参考・アバド時代のジルヴェスターのテーマ
- 1991年:ベートーヴェン(「エグモント」の音楽他)
- 1992年:リヒャルト・シュトラウス(「ドン・ファン」、「ばらの騎士」フィナーレ他)
- 1993年:ワーグナー(「タンホイザー」、「ローエングリン」、「ワルキューレ」他)
- 1994年:シューマン(ピアノ協奏曲、「ゲノフェーファ」他)※当初はメンデルスゾーンの予定
- 1995年:メンデルスゾーン(「真夏の夜の夢」、交響曲第4番)
- 1996年:ジプシー(ブラームス「ハンガリー舞曲」、「ジプシーの歌」op. 103他)
- 1997年:スペイン(ビゼー「カルメン」、ファリャ「恋は魔術師」他)
- 1998年:愛(モーツァルト「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、ヴェルディ「リゴレット」他)
- 1999年:ザ・フィナーレ(ベートーヴェン/交響曲第7番の終楽章、マーラー/交響曲第5番の終楽章、シェーンベルク「グレの歌」のフィナーレ他)
- 2000年:ヴェルディ(「ファルスタッフ」、「椿姫」、「ドン・カルロ」、「仮面舞踏会」他)
[編集] ヴァルトビューネ
ベルリンっ子の憩いの場である公園"ヴァルトビューネ"にある野外音楽堂で、毎年6月の最終日曜日に開かれる野外コンサート。コンサートの最後には、ニューイヤーコンサートでの「ラデツキー行進曲」的な存在として、パウル・リンケ作曲の「ベルリンの風」が演奏される。