オマル・ブラッドリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オマル・ネルソン・ブラッドリー(Omar Nelson Bradley, 1893年2月12日 - 1981年4月8日)は、アメリカ合衆国の軍人。第二次世界大戦中に北アフリカおよびヨーロッパでアメリカ合衆国陸軍を率いた有名な野戦司令官の一人。
ブラッドリーはミズーリ州クラークで貧しい学校教師の息子として生まれた。彼は地元の学校で教育を受けミズーリ大学に入るつもりだったが、ウェストポイントへの入学を助言された。彼は地区試験で主席となり1911年に陸軍士官学校に入学した。彼は1915年にウェストポイントを卒業したが、そのクラスは将来の多くの将軍を含み後の歴史家達から「星が降りかかったクラス」と呼ばれた。
彼は第14歩兵連隊に加わったが多くの同級生と異なりヨーロッパでの戦闘は経験しなかった。しかしながらアメリカ本土で様々な任務を得た。彼は1915年にメキシコ国境戦役に従軍した。第一次世界大戦へのアメリカの参戦と同時に彼は大尉に昇進し、モンタナ州に配属された。1918年8月にはヨーロッパに送られる予定の第19歩兵師団に配属されたが、インフルエンザの大流行と休戦は彼をアメリカ本土に留めることとなった。
戦間期に彼は教官として教え、また自らも学んだ。1920年から1924年まで彼はウェストポイントで数学を教えた。1924年に少佐に昇進、ジョージア州フォートベニングで上級歩兵コースを学ぶ。ハワイでの短期の任務後に1928年から1929年までフォートレヴェンワースの参謀学校で学んだ。1929年から再びウェストポイントで教官となり、1934年に再び陸軍大学で学ぶために休暇を取った。1936年には中佐に昇進、1938年から戦争省で勤務する。1941年2月に彼は准将に昇進しフォートベニングに着任する。1942年2月に第82空挺師団に改編される前の第82歩兵師団を指揮した。
なお、ドイツ軍のグライフ作戦(武装SSの部隊がアメリカ軍の軍服を着て後方撹乱する)に対抗し、「アメリカ人なら誰でも答えられる質問」を全ての将兵に訊くという方策が採られたとき、彼は「イリノイ州の州都は?」と訊かれ、正しくスプリングフィールドと答えたにもかかわらず、質問した兵士が正解をシカゴだと思い込んでいたために、一時拘留・軟禁されたという話が伝わっているが、真偽は定かではない。一説には、彼は「ミッキーマウスのガールフレンドは?」に答えられなかったとも言われる。
ブラッドリーは戦後二年間復員軍人局を率いた。彼は1948年に陸軍参謀本部に勤務し1949年には統合参謀本部の初代公式議長に就任した。1950年9月22日に彼は陸軍元帥に昇進した。彼は五番目の陸軍元帥で、そして最後の元帥であった。1950年に彼は北大西洋条約機構の委員会の初代議長に就任した。彼は1953年8月まで議長職を務め、その間に様々な役職に就任した。
彼は回想録『一兵士の物語』を1951年に公表し、モントゴメリーの1945年のバルジの戦いに関するクレームへの反論を行った。また、1970年制作の映画『パットン大戦車軍団』では顧問として参加した。彼は晩年をテキサス州フォートブリスのウィリアム・ボーモント軍隊医療センターの敷地内の特別邸宅で過ごし、死後はアーリントン国立墓地に埋葬された。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
|
|
|
|
|
|