バルジの戦い
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バルジの戦い | |
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![]() アルデンヌで防衛に当たるアメリカ軍兵士。 |
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戦争: 第二次世界大戦(西部戦線) | |
年月日: 1944年12月16日から1945年1月25日 | |
場所: アルデンヌ、ベルギー | |
結果: 連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指揮官 | |
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戦力 | |
83,000 | 200,000 |
損害 | |
戦死 15,652 戦傷 41,600 捕虜・行方不明 27,582 |
アメリカ軍 戦死 19,276 戦傷 47,493 捕虜・行方不明 23,218 イギリス軍 戦死201 戦傷・行方不明 1,400 |
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バルジの戦い (Battle of the Bulge)とは、第二次世界大戦の西部戦線におけるドイツ軍の最後の大反撃に対する連合軍からの呼び名である。バルジ(Bulge)とは「出っ張り」を指す英語である。ドイツ軍の進撃により戦線の一部が突出したことから米軍が名付けた。映画「バルジの戦い」公開以降に同名称が良く知られるようになった。
ドイツ軍は作戦名「ラインの守り」 (独:Unternehmen ”Wacht am Rhein”) の下に大攻勢をかけた。大反撃は、西方軍総司令官(Oberbefehlshaber West)だったゲルト・フォン・ルントシュテット元帥により立案されたことからルントシュテット攻勢(独:Rundstedt-Offensive)、地名からアルデンヌ攻勢(独:Ardennenoffensive)と呼ばれる。
目次 |
[編集] 背景
1944年9月4日、イギリス軍はベルギーのアントワープを解放したものの、補給拠点として使用するには周辺のドイツ軍を掃討する必要があるため、使用可能となる目処は立っていなかった。そのため、補給線の延びきった連合軍の進撃は休止し、戦線は膠着状態にあった。この状況を打開するため、9月17日バーナード・モントゴメリー将軍の計画したマーケット・ガーデン作戦が開始され、ドイツ本国への侵攻が試みられたが、この作戦は余りにも無謀に過ぎ、多くの犠牲とともに大失敗した。戦線は再び膠着し、連合軍は一時的に進撃を中止して重大な問題となっていた補給対策に取り組み始めた。また東部戦線も同じ時期、ソビエト連邦によるバグラチオン作戦がポーランド東部で息切れしていた頃で、小休止状態にあった。
この機会に乗じたヒトラーは乾坤一擲ともいえるような反撃作戦を構想した。おそらく1940年のフランスに対する電撃戦の勝利を再現しようとしたもので、ベルギーのアルデンヌ地方の森林地帯を装甲部隊が突破し、一路アントワープに進撃してこれを奪回し、西部戦線北方の連合国軍を包囲、壊滅させるという案であった。軍部首脳のルントシュテットやモーデルは、この計画は無謀だとして反対したと言われているが、さらにヒトラーはこの作戦の成功により西部戦線の停滞、もしくは講和を実現させて、東部戦線に戦力を集中させようとしていたと推測されている。
もう一つの案として、北部の広大な戦線に分散するコートニー・H・ホッジス将軍麾下のアメリカ第1軍を挟み撃ちにして壊滅させることが提案された。敵軍の包囲、分断は容易であり、自らの損害も最小限に押さえられるとされたが、所詮連合軍の戦力の一部を減らすだけでしかなく、戦争の趨勢を変えられる案ではないとして却下された。
作戦時期はアルデンヌの森に霧が立ち込める冬とされた。すでに制空権は連合軍に移っており、航空機による激しい空爆から部隊を隠すためであった。またドイツ軍は作戦に参加する戦力として精鋭約20個師団を用意し、新鋭のティーガーII戦車も含んでいたが、内実は東部戦線での出血の間接的影響のためほとんどの部隊が定員割れしており、錬度の低い新編成の国民擲弾兵師団(en)までが投入されるほどだった。軍需燃料の不足も深刻さを増し、満足な量は準備できなかった。だが、作戦には1944年に戦中最大に達したドイツの兵器生産のストックのかなりの部分が投入され、精強な部隊での作戦でもあり大きな期待がかけられていた。しかし攻撃を予定のまま続けるには作戦の途中で連合軍の補給拠点を奪取する必要があるなど、最初からかなり危うい作戦だった。ひとつ歯車が狂った場合それが作戦全体に波及する可能性が非常に高かったのである。
連合軍の上層部は、ドイツ軍集結の情報や攻勢作戦の兆候を報告されていたが、ドイツには攻勢に打って出る余力はもう残っていないという油断から、本気にしなかった。またアルデンヌ地方は深い森林と山岳地帯であったため、装甲部隊がすんなりと通れるとは思われず、防衛隊として脆弱な部隊しか配置していなかった。この油断は戦後にかなり痛烈に批判されている。何故なら、ドイツ軍の戦車部隊は1940年に同じ地域から連合軍の隙を突いて(当時は仏英主導だったが)フランスに流れ込んだからである。いくらドイツ軍にはもはや攻勢に出る余力がないと思ってたにせよ、連合軍は歴史から全く学んでいなかったと言うことになる。
[編集] 計画の立案
9月中旬までに、アルデンヌの森を通って攻撃を行うことが決定された。主力は西方に進撃しムーズ川に達したところで北西のアントワープとブリュッセルに進撃する予定であった。最も困難なのは作戦開始での迅速な移動と考えられたが、ムーズ川を越えれば劇的に改善され海岸への到達が可能になるはずであった。作戦は連合軍諜報部にラインラントの防御作戦と誤認させるため「ライン(河)の守り」Wacht am Rhein と名付けられた。これはドイツの歌から取られた名称でもある。
4個軍の作戦投入が決定された:
- ゼップ・ディートリヒの率いる第6SS装甲軍は1944年10月26日に新しく編成された。同軍は武装親衛隊の精鋭師団、第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」および第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」を組み込んだ。彼らは主要攻撃部隊として北部の攻撃を行い、その目標はアントワープの確保であった。
- ハッソ・フォン・マントイフェルの率いる第5装甲軍は、中央攻撃ルートに割り当てられブリュッセルの確保が目的となった。
- エーリッヒ・ブランデンベルガーの率いる第7軍は、側面の支援と南部の攻撃に割り当てられた。
- 第15軍は再編成されたばかりで、最北部に配置された。任務はその地域のアメリカ軍勢力を固定し攻撃に最適な状況を作り出すことであった。
攻撃の成功には三つの点が要求されると考えられた。
- 攻撃は完全な奇襲であること。
- 悪天候であること。連合軍の制空権を無効にし、補給路が確保できること。時期は冬季のしかも豪雪期に設定された。
- 迅速な進撃。モーデルはムーズ川に4日で到達しなければいけないと考えた。
攻撃に先立つドイツ軍の部隊移動を連合軍は確認できなかった。フランスの解放によりレジスタンスから有益な情報がもたらされたが、連合軍がドイツ国境に達した現在それは意味を持たなかった。フランスではエニグマによって暗号化された無線通信による指令がドイツ軍内で行われており、それは傍受しウルトラで解読することができたが、ドイツ国内ではこのような指令が電話とテレプリンターを使用して送信されていた。また、来たる攻勢によるものと考えられる無線交信の特別遮断指令で交信が減少していた(ドイツ国内だったので電話や電報などが多用された)。7月20日のヒトラー暗殺計画失敗によるドイツ国防軍内での粛清によりドイツ軍の通信セキュリティは再強化され、情報漏洩の減少に繋がった。更に秋の濃霧の天候は連合軍の偵察機が地形状況を評価するのを妨げた。
連合軍最高司令部は、諜報部からの以前の報告 - ドイツ軍はこの末期状況に於いていかなる攻勢も行うことはできない - を根拠としてアルデンヌの情勢に変化は無いものと考え、アルデンヌ方面の弱体な部隊の交代、もしくは強化を行わず、放置した。特にアルデンヌ地方の一翼を守る第2師団は歴戦の師団だったが兵員を多く失っていたため部隊再建中であった。また、同じ地域を守っていた第99師団と第106師団は米国本土から到着したばかりの歩兵師団であり、ほとんど戦闘経験がなかった。それにもかかわらず第99師団は善戦したが、第6SS装甲軍などの猛攻にさらされた第106師団はあっさり壊乱し、多くの兵がドイツ軍に降伏している。
[編集] ドイツ軍の攻撃
1944年12月16日、ドイツ軍はベルギーのアルデンヌの森を通って進撃を開始した。折からのひどい悪天候により、連合軍は航空機を飛ばすことができず、大いにドイツ軍の助けとなった。
突然の反撃に不意を突かれたミドルトン将軍の米第8軍は、クレルボー、ホージンゲンなど一部拠点で頑強に抵抗したが、旅団、連隊、大隊など高級部隊長の戦死や負傷が続出し、壊滅するか、捕虜となるか、包囲されるかという窮状となった。しかしながら、その驚きと混乱に乗じたドイツ軍の快進撃は最初の数日間しか続かなかった。12月下旬に差し掛かると、ドイツ軍の主力部隊はあちこちの地域で各地から急行してきたアメリカ軍による強力な抵抗に会い、前進は非常に遅くなった。また各戦線の進撃速度にも大きなバラつきが生じ、速攻に成功した部隊に包囲反撃が集中する事態が続出した。
ヒトラーはどうやら連合軍がこの事態に対応するのに時間がかかると考えていた節がうかがわれる。ドイツ軍の大規模な攻勢だと認識するのに数日、アイゼンハワーが各国首脳に相談して部隊の配置転換を命令するのに数日、そして配置転換するよう命令された部隊が現地に到着するのに数日。それだけ時間があれば作戦は間違いなく成功すると思ったのだろう。しかし実際は連合国軍の反応はヒトラーの予想を遥かに上回るほど早く、またアイゼンハワーの決断も早かった。彼はどの首脳と相談することもなく部隊の配置転換を断行し、当時フランスで再建中だった第101空挺師団をバストーニュに急派した。ヒトラーの思惑は初日から砕かれてしまったのだ。
[編集] シュテッセル作戦
連合国占領地域後方への空挺降下による本作戦の支援、連合軍の攪乱を狙いとするシュテッセル作戦が計画された。シュテッセル作戦では作戦開始が12月16日の午前早くに予定されたが悪天候と燃料不足のため、結局一日遅れの12月17日の03:00に降下時間が設定された。降下部隊の目標地点はマルメディから11km北の「バラク・ミハエル」十字路であった。フリードリヒ・アウグスト・フォン・デア・ハイト(ハイテとも)大佐と部下は同地点を確保、第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」が到着するまでの24時間を防衛し、同地点への連合軍の増援と補給を妨害する予定であった。
12月17日の午前零時直後、112機のJu 52輸送機が約1,300名の降下兵を搭載し、多くの雲と強い風雪の中離陸した。その結果多くの機が予定コースを外れ、また降下地点に接近していた強風のため多くの兵士が降下予定地点から遠く離れた地点に着陸した。
17日の正午に約300名が目的地点に集合した。しかしながら戦力的に不十分だったため連合軍に対する抵抗とはなり得なかった。フォン・デア・ハイト大佐は、十字路を確保する計画を放棄し付近でのゲリラ戦を行うことを部下に命じた。降下が広範囲に分散したため、各地からの報告で連合軍司令部は大規模な降下作戦が実施されたと誤認した。多くの混乱が生じ後方の安全を確保するための人員配置を行ったため、前線への増援が遅れ結果としてドイツ軍の攻勢を許すこととなった。
[編集] グライフ作戦
オットー・スコルツェニー親衛隊中佐の率いる第150装甲旅団がアメリカ軍の軍服を着用、英語を話す兵士達が鹵獲された連合軍の車両や連合軍の物に偽装された車両を使用し敵の後方地域に侵入した。実際完璧な英語を話す事ができ、それを生かして後方地域に浸透したのはせいぜい20名程度だったらしいが部隊の存在はその行動以上に混乱を生み出した(「本隊」の方はミューズ川に架かる橋の確保に失敗している)。米兵の軍服を着たドイツ兵の存在の噂は野火のように広がり、ジョージ・パットン将軍さえその噂に驚き、12月17日にドワイト・D・アイゼンハワー将軍へ「完璧な英語を話すクラウツ(en)どもがあちらこちらに出没して電話線を切断し、道路標識を逆方向に向け我が軍の防衛拠点に押し込んだ」と報告した。
ドイツ兵はアメリカ軍の軍服を着用したまま捕らえられたため、多くはその場でスパイと見なされて銃殺となった。ジュネーブ条約の下では軍服着用に関する項目と戦時捕虜の扱いで矛盾するものであったが、銃殺はその時点で一般的な行為であった。スコルツェニーと彼の部下達はそのような処置を覚悟しており、彼らはアメリカ軍の軍服の真下にドイツ軍の軍服を着用していた。
後方地域での妨害工作中に数名の兵士が連合軍によって捕らえられたが、すでに覚悟を決めていた彼らの出鱈目な自白のせいで却って混乱は広がった。彼らは任務について尋ねられた時、パリにいるアイゼンハワーの誘拐と殺害が目的であると答えたためアイゼンハワーの護衛は大幅に増加され彼は司令部に閉じこめられることとなった。その反面、彼らは正直に「部隊の指揮官はスコルツェニーである」と自白している。正直に言ったほうが効果的だと思ったからだろう。現実的に考えればパリに侵入してアイゼンハワーのいる場所にたどり着くと言うのはかなり無理のある作戦だが(もし本当だとすれば)、今まで信じられないような作戦を成功させてきたスコルツェニーが指揮しているだけに連合軍はその「自白」にまんまと騙されてしまったのだ。
その結果、後方区域の至る所に検問所が設置され、兵員や装備の移動を停滞させることとなった。野戦憲兵は、アメリカ人なら誰でもが知っていると思われる質問:ミッキーマウスのガールフレンドの名前、有名な野球の試合のスコア、イリノイ州の州都などを全ての兵士に厳しく質問した。憲兵の質問を受けたオマル・ブラッドリー将軍はイリノイ州の州都をスプリングフィールドであると正しく答えたが、憲兵は州都をシカゴと思いこんでいたため、彼は短時間の拘留を受けることとなった(イリノイ州最大の町は確かにシカゴなので結構多くのアメリカ人が誤解している)。
皮肉なことにこの事件のせいで「ヨーロッパで最も危険な人物」と綽名されるようになったスコルツェニー自身はこの作戦は失敗だったとしている。結局初日で達成するはずだった目的はどれも達成されず、部隊の存在が明らかになった以上作戦に固執しても意味がないと思ったのだろう。スコルツェニーは作戦に見切りをつけ、第150装甲旅団の兵士達を通常の軍服に着替えさせた上で普通の装甲旅団として戦闘に投入している。
[編集] マルメディ虐殺事件
北部では第6SS装甲軍の主力、4,800名の兵士と600両の車両から成るヨアヒム・パイパー親衛隊中佐率いるパイパー戦闘団がベルギー西部に進出した。12月17日の07:00に彼らはビューリンゲンのアメリカ軍の燃料補給基地を確保し、西方への進撃の前に燃料の再補給に成功した。12:30にマルメディとリヌーヴィルの間の高地、ボーネズ村の近くでアメリカ第285砲兵観測大隊に遭遇した。小戦闘の後にアメリカ軍部隊は降伏し、捕虜の約150人が武装解除され後方に送られるため十字路の近くの野原に8列横隊で立たされた。後の裁判における検察側記録によると、装甲車輌の一隊を率いてやってきた将校の命令により、まず一人の戦車兵が捕虜をピストルで撃ち、続いて他の兵士が機関銃で銃撃したということになっている(ただし、この『公式見解』には様々な矛盾や疑問が寄せられている)。
真実は未だに不明であるが、実際は逃亡を図った捕虜に対しての威嚇発砲によりパニックが発生、ついには逃げ回る捕虜たちを撃ちまくることになったのではないかという説が有力である。最後にまだ息のある者にとどめをさして回った者もいたが、彼らはこの前にデューレンの町で米軍の爆撃の巻き添えで犠牲になったベルギー民間人の無残な遺体を処理しており、また戦場経験の浅い者も多く、アメリカ兵に対する憎悪による私的な報復の可能性もある。またドイツ側の捕虜射殺命令の記録は存在しないが、捕虜の即時射殺は東部戦線では一般的な出来事だった。虐殺の知らせは連合軍内に急速に広まり、報復のため連合軍内には武装親衛隊員と降下兵は捕虜とせず即時射殺するよう指令が下った。戦後パイパーSS中佐は捕らえられマルメディ事件の責任を問う裁判が行われたが、中佐が虐殺命令を出した事実は無く、逆に連合軍側が捕虜虐殺を命じた不名誉な事実が明らかになっただけで、この件に関しての責任を問われることは無かった。
戦闘は継続し、ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー師団は夜までにアメリカ軍第99歩兵師団を攻撃し、これを大破した。パイパー戦闘団はスタヴローに到着した。
[編集] パイパー戦闘団の攻撃
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パイパーは12月18日にスタヴローに入ったが、アメリカ軍防衛部隊の激烈な抵抗に遭遇した。アメリカ軍の排除は困難で、彼は小部隊を街に残しトロワ・ポンの橋に向かった。しかし橋は退却する連合軍によって破壊されていた。彼はラ・グレーズからストゥーモンに向かった。パイパーの接近に合わせアメリカ軍工兵部隊は橋を爆破し、アメリカ軍は塹壕を掘り戦闘の準備は整っていた。
パイパー戦闘団はドイツ軍主力から切断され、アメリカ軍はスタヴローを奪還した時にようやく供給が行われた。ストゥーモンの状況は絶望的になり、彼はラ・グレーズに後退し防御陣地で救援部隊を待つことを決定した。救援部隊は連合軍の防御を突破できず、12月23日にパイパーは退却を決定した。戦闘団は彼らの貴重な車両及び装備の放棄を強いられることとなった。
[編集] サン・ヴィット
サン・ヴィットの中心部は重要な道路の交差地点で、フォン・マントイフェルおよびディートリヒの部隊の主要な目標となった。防衛部隊はアメリカ軍第7機甲師団に率いられ、第106歩兵師団及び第9機甲師団と第28歩兵師団の一部が加わっていた。ブルース・C・クラーク将軍指揮下のこれらの部隊はドイツ軍の攻撃に抵抗し、進撃を著しく遅らせた。ドイツ軍は12月21日にようやくサン・ヴィットを確保したが、アメリカ軍は抵抗を続けながら塹壕へ退却した。12月23日までにドイツ軍は彼らの側面を粉砕し、アメリカ軍はサルム川の西へ退却することとなった。ドイツ側の計画では12月17日の18:00までにサン・ヴィットを確保することになっていたが、計画の遅延は作戦進行に大きな打撃となった。
[編集] バストーニュ
12月19日に連合軍上級指揮官達はベルダンのブンカーで会合を行った。アイゼンハワーはパットンに第3軍を北部への反撃に向けるのにどのくらいかかるかを尋ねた。パットンは48時間で出来ると答えた。実際パットンは会合に出席する前に部下に対して北部に反撃する準備を行うように命じていた。アイゼンハワーが尋ねたとき、それは既に行われていた。
12月21日、ココット将軍の第26国民擲弾兵師団を主力とするドイツ軍は連合国の防衛線を突破、一足先に到着して全周防衛陣地を敷いていた、アメリカ陸軍第101空挺師団及び第10機甲師団の一部が守備するバストーニュを完全に包囲した。守備隊の責任者である第101空挺師団長代理アンソニー・マコーリフ准将はドイツ軍の降伏勧告に対して、「NUTS!(ふざけるな!)」と答え、副官が同じ言葉を書いた紙を公式の回答としてドイツ軍に送ったことは有名な話である(当時、師団長マクスウェル・テイラー将軍は会議で部隊を離れており、師団長代理のマコーリフ准将が指揮を執っていた)。
1) Nutsという言葉は睾丸のスラング(俗語)で、「Are you going nuts?(気でも狂ったか)」等、「常軌を逸した言動、行動またそれをする人」を指して使われる。この文脈ではおそらく「ふざけるな」という意味であろう。
ドイツ軍は幾つかの個別の地点に対し順に攻撃を集中した。これは防衛側に攻撃を撃退するため絶えず増援を送ることを強いたが、一方でドイツ軍の数の利点が打ち消されることとなった。結局ドイツ軍は早期にバストーニュを攻略する事に失敗し、貴重な数日を浪費した挙句バストーニュを包囲したまま西進する事になった。残存の部隊はその後何度もバストーニュに対して攻撃を仕掛けたが防衛線を突破することができなかった。
[編集] 連合軍の反撃
12月23日には天候が回復し、連合軍は空爆と空輸を開始した。航空爆撃はドイツ軍の補給基地に壊滅的な打撃を与え、P-47 サンダーボルトは路上のドイツ軍を攻撃した。さらにバストーニュへの空輸で医薬品、食料、毛布、弾薬が補給された。ボランティアの外科医チームがグライダーで現地に入り、負傷者の救援を行った。
12月24日までには、補給線の限界を超えたドイツ軍の進撃はムーズ川の近くで失速した。燃料と弾薬の枯渇が致命的であった。また、作戦が開始されるとドイツ軍は無線封鎖を解除したため、連合軍の情報部は容易にドイツ軍の位置を割り出して、的確に反撃することができた。この時点までドイツ軍の損失はパイパー戦闘団の消耗を別として軽微な物であった。24日の夜にハッソ・フォン・マントイフェルは作戦の停止と撤退を進言したが、ヒトラーはそれを拒絶した。
パットンの第3軍はバストーニュを救出するために戦い続けた。12月26日の16:50に第4機甲師団の一部がバストーニュに達し、包囲は破られた。
1月13日ドイツ軍はバストーニュから退却した。
1月23日にはドイツ軍司令部により、作戦の停止が決定された。戦闘は公式には1945年1月27日に終了した。
この戦いにおけるアメリカ軍の戦死者・負傷者・行方不明・捕虜は合わせて75,522人、イギリス軍の戦死者は1,408人、ドイツ軍の戦死者は67,675人だった。
[編集] 戦局への影響
作戦により、連合軍はより多くの戦力を割かねばならなくなり、進攻計画に数ヶ月の遅れを生じさせたが、ドイツ軍は決定的な敗退と損失を被ったことで、戦争の終結は早まった。また、防御を固めるのではなく攻勢に出てきたドイツ軍の中核を補給が続かなくなった状態の時に壊滅させたことで、進攻による連合軍の被害は最小限に抑えられたと考えることもできる。さらにドイツは東部戦線に軍を回す余力もなくしたため、ソ連の進撃速度を速めるという結果も生んだ。
また、例えこの作戦がドイツ(と言うよりヒトラー)の思惑通り成功していたとしても戦局に大きな影響を与えたとは思いがたい。もしドイツ軍が西部戦線で連合軍の戦線を突破しアントワープまで打通していたとしても連合国は講和になど応じなかっただろう。ヒトラーが望んでいた「米国や英国との単独講和」は所詮ヒトラーの脳内にしかありえない非現実的なシナリオだったと言うしかないだろう。また、着実にベルリンに向かって進軍していたソ連軍がいきなり消えるわけでもない。
もしドイツ軍が西部戦線で大勝利を収めたとしても戦線を維持するために兵力を貼り付けておく必要があり、余った兵力(この時点でドイツにはすでに余剰兵力などなかったが)を東部戦線に回して巻き返すのはこの時点ではまず不可能だったろう。結局のところヒトラーは出なくても良い、勝てたとしてもあまり効果がなそうな賭けに出て、しかも負けてしまったのだ。
[編集] この戦いを題材とした作品
- 『前線命令』(原題:The last blitzkrieg)
- 1959年製作のアメリカの戦争映画 (Colombia Pictures)。米兵の軍服を着用して偽装した英語を話すオットー・スコルツェニーの謀略部隊の活躍を描く。米語のスラングを理解出来ないことから正体が発覚する。
- 『バルジ大作戦』(原題:Battle of Bulge)
- 1965年製作のアメリカの戦争映画。「バルジの戦い」を題材としているが、細部はかなりフィクションが入っており、またスペインロケであるが途中から雪が消えてしまい、どこの戦場だかわからなくなってしまっている。ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐をモデルとしたドイツ軍の戦車隊指揮官へスラー大佐をロバート・ショウが演じている。また作品中で若い戦車兵達が大佐に対し自らの戦意を示すため「パンツァー・リート」を大合唱するシーンがあることでも有名で、このことから「パンツァー・リート」は世界的に知られるドイツ軍歌となっている。
- 『大反撃』(原題:Castle Keep)
- 1969年製作のアメリカの戦争映画。アルデンヌの古城を舞台にした米軍部隊とドイツ軍との壮絶な戦いを描いた異色作品。
- 『真夜中の戦場』(原題:A Midnight Clear)
- 1992年製作のアメリカの戦争映画 (Colombia Pictures)。1944年12月アルデンヌの前線に送られた米軍の斥候隊と投降を願うドイツ兵の物語。戦場のクリスマス・ソングとクリスマス・ツリー。
- 2001年に製作された第101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊の訓練から対ドイツ軍戦勝利・終戦までを描いたスティーヴン・アンブローズのノンフィクション作品を基にしたテレビドラマ。その中の一話は「バストーニュ」のエピソード名からも分かるように(ただし日本語版では『衛生兵』)バルジの戦いのエピソードである。
- Jean-Paul Pallud (Pitorials): Ardennes 1944: Peiper and Skorzeny, Osprey, 1987, ISBN 0-85045-740-8 第101空挺師団の包囲されたバストーニュにおける苦闘を描いた回。
[編集] ボードゲーム
- コマンド・マガジン第46号 『西部戦線1944』、国際通信社
[編集] 外部リンク
- The Ardennes: Battle of the Bulge, the official US Army history by Hugh M. Cole
- http://hometown.aol.com/dadswar/bulge/index.htm
- http://ardenne44.free.fr/page2.html
- Canadian War Museum online WW2 newspaper archive
- パンツァー・リート(ドイツ戦車兵の軍歌)
- 軍歌「ヴァハト・アム・ライン」(ラインの守り)
- ran an den Feind! ドイツ軍歌のサイト(「パンツァー・リート」他多くのドイツ軍歌の原語歌詞と日本語対訳が掲載されている)
- 西洋軍歌蒐集館より「パンツァー・リート」(世界各国の国歌や軍歌の原語歌詞と日本語対訳が掲載されているサイト)