カシュガル
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カシュガル(Kashgar, ウイグル語:قەشقەر, 中国語:喀什噶爾、喀什)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区唯一の県級市であり、同地区の首府である。面積192平方キロ(うち都市面積20.58平方キロ)、人口37万人で、80%は土着のウイグル族など少数民族が占める。カシュガル大都市圏人口は120万人に達する。古くからシルクロードの要衝として、またイスラームの拠点都市としても発展し、国家歴史文化名城に指定されている。
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[編集] 地理
タクラマカン砂漠西端に位置するオアシス都市で、中華人民共和国最西端の町である。天山山脈の麓に位置し、標高は1200メートル。温帯性の気候で年間平均気温は11度。冬は寒すぎず、夏は暑すぎない。地勢は平坦で、土地は肥沃であり、モモ、ブドウ、イチジク、アンズなどの果実を産出する。中央アジアやインド、中国本土から延びる交通路が交わり、古くから交通の要衝であった。1999年12月、南疆鉄道のコルラ-カシュガル間が開通し、ウルムチほか中国各都市からの鉄道アクセスの基盤整った。タシュクルガン、クンジュラブ峠を経るカラコルム・ハイウェイ(中パ公路)でパキスタン北部フンザ、ギルギットと、ヤルカンド、カルギリク(葉城)を経る新蔵公路で西チベット、アリ(阿里)、プラン(普蘭)と結ばれる。
[編集] 歴史
古代には疏勒国の国都であった。タリム盆地周辺には古くからインド・ヨーロッパ語族系の白色人種が住んでおり、疏勒国もそのひとつである。匈奴が強盛の時代にはその間接支配を受けたが、中国が統一され、漢が西方に進出して西域都護府を設置すると、その勢力下に入った。その後も中国の勢力が後退すると、柔然や突厥など北方民族の間接支配下に落ちり、唐が安西都護府を設置すると、安西四鎮のひとつである疏勒都督府が置かれたりした。疏勒はタリム盆地南部を通るシルクロード南路の要所であり、この地を訪れた唐の玄奘は疏勒を仏教が盛んな国であると記述している。
北方のモンゴル高原で突厥に代わったウイグルが9世紀になって衰亡し、キルギスに滅ぼされると、ウイグル族は大挙して西遷、タリム盆地に入った。ウイグルは土着の欧印語系民族と混血し、この地の言語はトルコ化(ウイグル化)する。さらに10世紀には最初のトルコ系イスラム王朝であるカラハン朝の勢力がパミール高原を越えてカシュガルに延び、その王都となったこともある。
宋代には契丹族が建てた西遼に属し、元代にはチャガタイ汗国の陪都となり、明代にはヤルカンド汗国に属した。このような歴史のなかでカシュガルはイスラム化したウイグル族の宗教的中心となる。清代に入ると、乾隆帝の新疆征服により、カシュガル直隷州が設置され、新疆南部を統治する参賛大臣が駐在した。清末の混乱期にはコーカンド・ハン国から来たヤクブ・ベクがカシュガルを拠点に一時タリム盆地一帯を支配したが、左宗棠により討伐されている。
清朝滅亡後、1913年に疏勒県が設置され、1933年から翌年にかけて短期間であるが東トルキスタン・イスラム共和国がこの地に成立したこともある。中華人民共和国成立後、1952年には疏勒県からカシュガル市が分置された。1986年対外開放され、同時に国家歴史文化名城に指定された。市内にはカシュガル地区行政公署が設置されている。ウイグル族が多い土地だけに東トルキスタン分離運動が盛んで、テロ事件が起ることもある。
[編集] 軍事
中国人民解放軍蘭州軍区(大軍区)に所属する新疆軍区の第6自動化歩兵師団司令部や武装警察部隊、新疆生産建設兵団3個師団が駐屯する。
[編集] 観光
中国最大の清真寺(モスク)とされるエイティガール寺院、かってのカシュガルの統治者アバク・ホジャ一族の墓(香妃墓とも呼ばれる)、イスラム色あふれるバザールが観光の中心である。郊外にも仏教国ホータンとの戦いで戦死したカラハン朝大汗アルスラン・ハーン(獅子王)の墓や古代遺跡が多い。隣国パキスタンからの観光客が最も多いが、二番目に多いのが日本人である。古代より続く巨大なバザールでは、食料や衣類などの生活物資、家畜、電化製品はじめ、中国や周辺諸国の特産物が販売されており、みやげ物選びにも格好の場所。
[編集] 教育
- カシュガル大学