カール・シューリヒト
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カール・アドルフ・シューリヒト(Carl Schuricht, 1880年7月3日 - 1967年1月7日)は、ダンツィヒ生まれのクラシック音楽の指揮者。父親カール・コンラート・シューリヒトは代々受け継がれてきたオルガン製作者であったが、息子カールが生まれる三週間前に、ダンツィヒの海岸で溺れた雇い人を助けようとして命を落としてしまう。カールは母親がオラトリオ歌手であったこともあり、幼少から音楽に囲まれた環境に育った。
1901年からマインツ市立歌劇場のコレペティトゥアー(声楽練習の伴奏者)を務め、音楽家のキャリアをスタートさせる。1902年からはベルリン音楽高等学院に入学する。1912年から1944年まで長くヴィースバーデン市の音楽総監督の地位にあった。また戦前戦後を通じてウィーン・フィル、ベルリン・フィル(戦前にはPolydorに多数のSP録音を行う)などのヨーロッパ各地のオーケストラに客演した。モーツァルトの生誕200年の1956年1月27日に、ウィーンフィルの初の米国演奏旅行に同行するはずだったエーリッヒ・クライバーがチューリッヒで急逝してしまう。前日にザルツブルクのモーツァルテウム大ホールでシューリヒトはウィーンフィルを指揮したが(曲目はハフナー交響曲など)、このコンサートの成功をきっかけにウィーンフィルは米国演奏旅行の首席指揮者としてシューリヒトを選出する(副指揮者はアンドレ・クリュイタンス)。このアメリカツアーで12のコンサートを開き、大成功を収めた(2年後の1958年にはウィーン・フィルと大規模なヨーロッパツアーを行う)。1957年にラヴェンナ音楽祭でシカゴ交響楽団、タングルウッド音楽祭でボストン交響楽団に客演。1963年には渡英しロンドン交響楽団を指揮した。
シューリヒトはバッハからマーラー、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、ディーリアスまでレパートリーが広いが、特にモーツァルトやブルックナー、ベートーヴェン、ブラームスの交響曲の演奏には定評がある。
シューリヒトの演奏スタイルは、基本的にテンポが非常に速く、リズムは鋭く冴えており、響きは生命力に満ち、かつ透明度の高いものであった。彼の楽譜の読みはどの指揮者よりも個性的で、ある時はザッハリヒに厳しく響かせたり、ある時はテンポを動かしながらロマンティックに歌わせるなど、決して一筋縄ではいかない意外性があったが、音楽全体は確信と明晰さにあふれていた。また、同じ曲でも決して毎回同じようには指揮せず、演奏するたびに新鮮な感動と発見を聴き手に与えるのであった。EMIやDecca、コンサートホール協会盤など多数のスタジオ録音が残されているが、放送用録音の発掘も現在盛んに行われている。
シューリヒトはかなり高齢になってから世界的名声を得た人であり、特に晩年はリューマチの悪化により杖をつきながらかなり長い時間をかけて指揮台に登場するのであった。しかしひとたび指揮台に上がると、年齢を全く感じさせない輝かしい生命力が彼の指揮姿からもその音楽からも湧き出て、聴く者に(そしてオーケストラの楽員にも)大きな感銘を与えたのである。能力のない指揮者に対しては口が悪いウィーン・フィルのメンバーも、シューリヒトを「偉大な老紳士」と称して特別に敬愛していたという。
1965年ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮したのが最後の演奏会となり、1967年1月7日に、スイスで亡くなった。享年86。
[編集] レコード録音
モーツァルト交響曲第38番「プラハ」
ブルックナー交響曲第8番/第9番