ガリア帝国
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ガリア帝国(現代の呼称、ラテン語Imperium Galliarum)は、ローマ帝国の3世紀の危機の間、260年から273年に存在した短命の独立王国である。 ローマ帝国の属州から離脱したガリア、ブリタンニア、ヒスパニア、およびさらに南の平穏なヒスパニア・バエティカから成り立った。
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[編集] ガリア帝国の成立
3世紀の危機は、ウァレリアヌス帝がサーサーン朝ペルシアの捕虜となり(259年)、その息子ガリエヌス帝が非常に不安定な状況に置かれたことに始まった。パンノニア属州総督が現地で反乱を企て、結果的に反乱は失敗したものの、その鎮圧のために皇帝がドナウ川に赴いたので、ゲルマニアの上下2属州の総督であったポストゥムスはライン川領域に残って統治を委任された。
皇帝の後継者サロニヌスと法務官シルヴァヌスはアグリピナ植民地に残った。これは、若い後継者を危険から遠ざけるとともに、おそらくはポストゥムスの野心を抑えるための配慮だった。しかし、間もなくポストゥムスは反逆して何度かの小競り合いに勝利し、アグリピナ植民地を征服して若い後継者と法務官を処刑した。
ポストゥムスは、アウグスタ・トレヴィヴォラム(現ドイツ、ラインラント=プファルツ州のトリーア)を帝国の首都と定め、独自の元老院と毎年選出される二人の執政官(執政官の名は一部しか残されていない)、および、独自の法務官を設置した。ポストゥムス自身は5回にわたって執政官の職を担ったようである。
ガリア帝国の成立は、民族主義の歴史家が推測したガリア人の独立行動の姿はおそらく誇張されているにせよ、ただ3世紀の危機の混乱の一症状という以上の意味合いに解釈できる。すなわちそれは、現地元来の自立的な力が、伝統的な「ローマ精神(romanitas)」や、個々の軍団を結合する忠誠心、ローマ化した貴族の血族関係によってライン川からバエティカにいたるまで結託した力、などと対立したことの現われと考えられる。
ポストゥムスは、彼の意図はただガリアを守りたいだけで、それが皇帝としての仕事だと宣言し、261年にフランク人とアレマン族との混合軍を退けて、ライン川のリーメス(長城)の安全を確保した。ただし、ライン川上流とドナウ川を越えた領土は放棄され、2年ほどの間は蛮族に侵略されていった。
[編集] ガリア皇帝
ガリア皇帝は、彼らが造幣した硬貨から明らかになっている。これら皇帝たちの経歴を綴るとガリア帝国の歴史が浮かび上がる:
- ポストゥムス: 260年-268年
- (ラエリアヌス: 268年 簒奪者)
- マルクス・アウレリウス・マリウス:268年
- ウィクトリヌス:268年-270年
- (ドミティアヌス:271年 簒奪者)
- テトリクス1世:270年-273年
- テトリクス2世:270年-273年(テトリクス1世の息子、副帝)
[編集] 関連項目
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