ガージャール朝
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ガージャール朝(ペルシア語: قاجاریه Qājārīye、前近代ペルシア語ではカージャール朝)は18世紀末から20世紀初にかけて現在のイランを中心に支配したトゥルクマーン系ガージャール部族連合によるイスラム王朝(1796年 - 1925年)。 首都はテヘラン。
目次 |
[編集] 概要
サファヴィー朝滅亡後のイランを統一して、めまぐるしく移り変わる群雄割拠の時代に終止符を打った。 しかし、ガージャール朝の時代は内憂外患に悩まされイランの暗い時代として記憶されている。
ガージャール朝の権力基盤は弱体であった。 ガージャール朝はその軍事力を部族勢力の提供する兵力に依存していたため、各部族の勢力をおさえきれなかった。 また地方太守に任じたガージャール一族も独立傾向を露わにして恣意的な統治を行うことが多く、テヘランへの税納は滞りがちとなった。 したがって国内的には必ずしも統一的安定的統治がおこなわれたとは言い難い。 脆弱な中央権力のもと、アーガー・ハーン1世マハッラーティーの反乱やバーブ教の反乱など内乱が相次ぎ、社会的にも不安定であった。
対外的には二度にわたるロシア帝国との戦争(1805年 - 13年、1827年 - 28年)とその敗北によってグルジアなどカフカズを失った(ゴレスターン条約、トルコマーンチャーイ条約)。 またホラーサーンのヘラート遠征(1836年、56年)もイギリスとの確執と戦争を引き起こして失敗に終わり、今日のアフガニスタンの領域が確立(パリ条約 (1857年))。 現在のイランの国境線はおおむねガージャール朝の時代に成立したものであるといえる。
こうした状況にあって19世紀後半には兵制改革や近代的教育機関の設立、金融などの改革が幾たびか試みられることになるが、十分な成果を得ることはできなかった。 むしろ近代化のための費用は、ただでさえ戦費にあえぐ財政に重くのしかかり、おりからの銀のポンドに対する下落とあいまって、イランの経済的従属化を進めることになる。 政府は鉄道や電信などの利権を英国を初めとするヨーロッパの商社などに売ることでこれをしのごうとした。
このような政府の動きは売国的、反イスラーム的との印象を与えた。 政府に対する異議申し立ての活動が活発化し、1891年にはタバコ利権の売り渡しに端を発するタバコ・ボイコット運動が起こる。 政府は改革の推進と公正なるイスラーム的統治という矛盾する目的を同時に追求せざるをえず、ますます混迷を深め、1905年 - 11年のイラン立憲革命の勃発に至り、ついに立憲議会制を導入する。
その間にも1907年の英露協商で南北それぞれがイギリスとロシアの勢力圏と定められるなど、ガージャール朝は、もはや緩衝国としての役割を担うに過ぎない状態となった。 立憲革命もロシア軍の介入でなし崩しに終わった。 命数を使い果たしたガージャール朝は1925年、パフラヴィー朝に代わり、以降イランは国民国家イランとして近代化の道を進むことになる。
ガージャール朝の時代はこのようにきわめて不安定な時代ではあったが、現代イランのさまざまな要素が芽生えたのがこの時代であったことは忘れてはならない。 伝統の多くが定着したのはガージャール朝時代であった。 ガージャール朝の弱さは「イラン国民」という意識を目覚めさせ、一方でシーア派イスラームと政治との関わりを濃密なものとさせたとも言えるのである。
[編集] 歴史
[編集] 草創の時代
ガージャール部族連合はトルコマーン系の遊牧部族連合でサファヴィー朝ではキズィルバーシュの一翼をなし、サファヴィー朝期には今日のナゴルノ・カラバフ自治州のカラバフ、のち同朝末にはゴルガーンのアスタラーバード(今日のイラン・ゴレスターン州ゴルガーン)を本拠としていた。 ガージャール部族連合はおおむねデヴェルーとコユンルーという二集団に大別でき、互いに勢力を争っていた。 コユンルーのムハンマド・ハサン・ハーンはサファヴィー朝末期以降の群雄割拠の時代にあってアフシャール朝のナーディル・シャーとの合従連衡において、頭角をあらわす。 ナーディル・シャー没後、ムハンマド・ハサン・ハーンはギーラーン、マーザンダラーン、ゴルガーンのカスピ海沿岸部を押さえる一大勢力となり、イラン南東部を本拠とするザンド朝のカリーム・ハーンと争うようになった。
抗争のなかでムハンマド・ハサン・ハーンの息子、アーカー・ムハンマド・ハーンはザンド朝の手に落ちる。 カリーム・ハーンはガージャール部族連合内の争いから利を得るため、彼を首都シーラーズに抑留して手元におく一方、彼と敵対するデヴェルーを支援した。 1758年、父ムハンマド・ハサン・ハーンが没するとアーカー・ムハンマド・ハーンはガージャール部族連合の一方コユンルーの長となり、ザンド朝宮廷に席を占める。 アーカー・ムハンマド・ハーンは1779年、カリーム・ハーンが没するとシーラーズを脱出し、1781年、ロシアを撃退してアスタラーバードでデヴェルーを抑えてガージャール部族連合内の権力を確立した。 これをもってガージャール朝の成立とすることがある。
アーカー・ムハンマド・ハーンは以降ザンド朝と争いながら北部イランに勢力を広げていく。 1785年までにカスピ海沿岸をほぼ押さえ、テヘランに本拠を移した。 これはイラン政治の重心が北西イランへと移動したことも示しており、レイ近郊の小さな街にすぎなかったテヘランは成長を続け今日に至るまでイランの首都となる。 1794年にはルトフ・アリー・ハーンを捕らえてザンド朝を滅ぼし、1795年、ロシアにたびたび保護を求めたグルジアに遠征してイラン王朝伝統の宗主権を再確立した。 ティフリス(今日のトビリシ)まで攻略したアーカー・ムハンマド・ハーンはテヘランに戻り、1796年、シャーとして戴冠、アーガー・モハンマド・シャーを名乗った(以降、現代ペルシア音で記す)。 続いて北東のホラーサーン方面に目を転じてマシュハドを確保、さらに名目的に命脈を保っていたアフシャール朝を滅ぼし、ほぼサファヴィー朝の領域を確保するに至った。
1796年夏、ロシアがグルジア遠征軍を起こした。 この遠征はエカチェリーナ2世の死去に伴って中止されたものの、アーガー・モハンマド・シャーは翌年春、ブハラ遠征に代えてグルジア安定のためにテヘランを出発したが、その途上1797年6月19日、暗殺された。 グルジア問題は以降ガージャール朝歴代の懸案としてロシアとの対立をもたらし、やがてイラン・ロシア戦争を招くことになる。
[編集] 王朝の確立と外患
アーガー・モハンマド・ハーンは幼時に去勢されていたため子がなかった。 大宰相(サドレ・アアザム)のエブラーヒーム・キャラーンタル・シーラーズィーはアーガー・モハンマド・シャーの死去によって瓦解する兵力を再編成し、ファールスの太守であった前シャーの甥ソルターン・バーバー・ハーンをテヘランに迎えた。 これが第2代ファトフ・アリー・シャー(1797年7月28日即位;翌年3月19日戴冠)である。
ファトフ・アリー・シャーは即位早々にアーガー・モハンマド・シャーの盟友たる有力部族長たち、アフシャール朝やザンド朝の残党、叔父や兄弟などの一族からの挑戦を受けることになった(1798年中にアゼルバイジャンにおいてクルドのサーデグ・ハーン・シャガーギー、南部のモハンマド・ハーン・ザンド、弟ホセインゴリー・ハーンなど)。 ファトフ・アリー・シャーはこれらを一つ一つ退け、ガージャール王権を確立する。 また1801年4月には建国の功臣・大宰相エブラーヒーム・キャラーンタル・シーラーズィーを罷免、のちに処刑している。 これはザンド朝以降、イラン東部・南部に広大な土地を所有したペルシア人文人官僚(タージーク)らの基盤を王権に回収することをねらったものであると同時に、北西イランのアゼルバイジャン閥官僚らによる陰謀という北西対南東の地方的権力闘争の面も持っていた。 このようにファトフ・アリー・シャーは王権の確立に努めたが、ガージャール朝の権力基盤たる部族長や一族の権力を徹底的に削ぐことは出来ず、打撃を与えたのちに懐柔する微温的な選択をせざるを得なかった。 地方統治のためにファトフ・アリー・シャーは徐々に自らの子を各地の太守に任じて結束を固めていく。 もっとも顕著なものは太子アッバース・ミールザーのタブリーズ太守への起用である。 これ以降ガージャール朝の太子(ワーリー・アフド)はタブリーズ太守としてアゼルバイジャンに常駐することになり、タブリーズはガージャール朝の事実上の副都となった。 各地に分封された王子らは任地において地方宮廷を営んで土着の部族長らと関係を深めた。その結果、王権はシャーの代替わりごとに独立傾向の強い一族による挑戦を受けることになるのである。
アーガー・モハンマド・シャーによるカフカズ回収作戦はグルジアをロシアへ接近させ、1800年に東部グルジアはロシアに併合された。 これを認めないガージャール朝とロシアとの争いは1804年以降散発的な武力衝突となり、第一次イラン・ロシア戦争が勃発する(背景となる欧州情勢などについてはガージャール朝の国際関係で詳述)。 この戦いを指揮したのはアッバース・ミールザーであった。 彼はロシアとの争いを通じて、戦いの都度、部族民から編成される軍の近代化の必要性を実感、兵制改革を進め、洋式軍ネザーメ・ジャディードを編成している。 これがイランにおける近代化の嚆矢といえよう。 アッバース・ミールザーは連年アラス川を越えて交戦しエレバンを確保し戦争を優勢に進めた。 1810年には宗主権のイランへの返還を含む和平条約がロシアから申し出られたがこれを拒否、かえって1812年アスラーン・デジュの戦いで決定的な敗北を喫してしまう。 この結果、ヨーロッパ情勢の急激な展開を背景にイギリスの仲介によりゴレスターン条約(1813年9月13日調印)が締結され、ガージャール朝はグルジアやバクーなどアゼルバイジャン北半を失った。 同時期にはカフカズ西部でのロシアの活動を黙認したオスマン帝国とのあいだにも戦端が開かれた。ギリシャ独立戦争に忙殺されるオスマン帝国を圧倒して一時はバグダードを落とす勢いであったが、こちらもイギリスの介入がありエルズルム条約により、1639年のガスレ・シーリーン条約の国境線が再確定された。
[編集] ガージャール朝の君主
称号はサファヴィー朝以降の伝統によりシャーを名乗る。本事典ではガージャール朝以降は現代ペルシア語音でカナ転写する。カッコ内はアラビア語/前近代ペルシア語音。
- アーガー・モハンマド・シャー(1796年 - 1797年、アーカー・ムハンマド・シャー)
- ファトフ・アリー・シャー(1797年 - 1834年)
- モハンマド・シャー(1834年 - 1848年、ムハンマド・シャー)
- ナーセロッディーン・シャー(1846年 - 1896年、ナースィル・アッディーン・シャー)
- モザッファロッディーン・シャー(1896年 - 1907年、ムザッファル・アッディーン・シャー)
- モハンマド・アリー・シャー(1907年 - 1909年、ムハンマド・アリー・シャー)
- アフマド・シャー(1909年 - 1925年)
[編集] 外部リンク
- The Qajar (Kadjar) Pages
- Qajars Dynasty Turkoman dynasty of the Shahs of Persia
- Qajar Family Website
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