キプチャク草原
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キプチャク草原は、中央ユーラシア西北部の歴史的呼称。ペルシア語のダシュティ・キプチャーク(دشت قپچاق Dasht-i Qipchāq)の訳語で、この地域に11世紀から13世紀にかけてテュルク系遊牧民キプチャクが活動したことからこのように呼ばれるようになった。
[編集] 範囲
厳密に区切られた版図を持つわけではないが、おおよそ現在の北東はカザフスタン東部のカザフ高原、南東はキルギスタンの天山山脈北麓あたりで、東西はシルダリア川北岸、アラル海北岸、ウラル川下流域、ヴォルガ川下流域を経て西はドン川下流域あたりまで、西南は北カフカース低地、北西はチュヴァシ・リャザンあたりまでを指す。「南ロシア草原」と呼ばれるウクライナ南部からモルドバにかけての黒海沿岸低地も含めることもある。
北はシベリアおよびヨーロッパ・ロシアの森林地帯で、南は天山山脈、パミール高原、カフカース山脈などの急峻な山地と、トランスオクシアナ、ホラズム、ホラーサーンなどの乾燥したオアシス農業地帯で、両者に挟まれた帯状の草原地帯である。東はジュンガル盆地、アルタイ山脈を抜ければモンゴル高原の草原地帯に出て中国に通ずることができ、西はカルパティア山脈とトランシルヴァニアまで平原が広がるためほとんどヨーロッパの農耕地帯に接する。そのため、「草原の道」といわれる交易と民族移動の道が古来栄えてきた。
[編集] 歴史
キプチャク草原は遊牧に好適なため、紀元前1千年紀には遊牧の生活様式が一様に行われるようになり、南ロシアのスキタイ文化と同種の文化がキプチャク草原全域に広がっていった。この地域の遊牧民は、はじめサカなどイラン系の言語を話す民族が多数を占めたが、のちにテュルク系の言語を話す人々があらわれ、広く突厥の支配を受けた。突厥の解体後にはハザール、ブルガールが現われて西方に移住し、ハザール可汗国が滅びると今度は別のテュルク系遊牧民キプチャクがあらわれた。
13世紀になると、モンゴル帝国がキプチャクやブルガールを征服してキプチャク草原を制覇し、草原はキプチャクを征服したチンギス・ハーンの孫バトゥを始祖とするジョチ・ウルスの支配下に入った。ジョチ・ウルスがキプチャク草原に樹立した政権を通称してキプチャク・ハン国という。ジョチ・ウルスのモンゴル人たちは早くに言語的に先住民キプチャクと同化してテュルク化し、ヨーロッパからはタタール(タルタル)と呼ばれるようになる。
ジョチ・ウルスは14世紀前半にイスラム教を受容し最盛期を迎えたが、同じ世紀の後半には分裂し始め、15世紀には東部にはシャイバーン家のウズベク集団、ウズベクから分派したカザフ集団、ウラル川流域のノガイ・オルダ、ヴォルガ川中流域のカザン・ハン国、下流域のアストラハン・ハン国、クリミア半島のクリミア・ハン国など多くの政権が分立した。
16世紀にはウズベクがマーワラーアンナフルに南遷してキプチャク草原の東部はカザフの天地となり、カザフ草原と呼ばれるようになる。また、同じ世紀に西方ではカザンとアストラハンがロシアによって征服され、草原地帯にはその尖兵としてコサックが入り込み始めた。18世紀にはカザフとクリミアがロシア帝国に服属し、キプチャク草原の遊牧民の時代は終わりを告げることになる。