モルドバ
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- モルドバ共和国
- Republica Moldova
Република Молдова -
(国旗) (国章) - 国の標語 : なし
- 国歌 : モルドバの国歌
-
公用語 モルドバ語 (ルーマニア語と殆ど同じ) 首都 キシナウ 最大の都市 キシナウ 大統領 ウラディミール・ボロニン 首相 ヴァシレ・タルレフ 面積
- 総計
- 水面積率世界第135位
33,843km²
1.4%人口
- 総計(2006年)
- 人口密度世界第121位
3,395,600人
111人/km²GDP(自国通貨表示)
- 合計(2005年)
372億レイGDP(MER)
- 合計(2005年)世界第140位
28億ドルGDP(PPP)
- 合計(2005年)
- 1人当り世界第141位
93億6,700万ドル
2,374ドル独立
- 日付ソビエト連邦から
1991年8月27日通貨 レイ(MDL) 時間帯 UTC (±2)(DST: なし) ccTLD MD 国際電話番号 373
モルドバ共和国(モルドバきょうわこく)、通称モルドバは、東ヨーロッパの内陸国で、西はルーマニアと、他の三方はウクライナと国境を接する。旧ソビエト連邦を構成していた国家の一つであった。
ルーマニアとロシアとの間で領土の占領・併合が繰り返される地域であった。現在もルーマニアとロシアの狭間で揺れている。
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[編集] 国名
正式名称はモルドバ語で、Република Молдова。
日本語の表記は、モルドバ共和国。通称、モルドバ。
モルドバという名前はダキア語のmolta(多い)dava(砦)に由来する。また、ハンガリーの貴族が川の名前から付けたという別の説もある。
なお、ロシア連邦の連邦国家構成体であるモルドバ(Mordova,ウィキペディア日本語版では見だし語名をモルドヴィア共和国に統一)の日本語の表記もモルドバ共和国になってしまうので、注意が必要。
[編集] 歴史
古代からモルドバ平原にダキア人がいたが、その後やってきたローマ人入植者も加わりこの地帯独自の文化が形成された。271年のローマ軍撤退後は、ヨーロッパとアジアを繋ぐという戦略上重要な位置にあるためキエフのルース、モンゴル系などの様々な侵略を受けた。
中世には、モルダビア公国の東部を構成していた。16世紀にはモルダビアはオスマン帝国の属国になった。1812年ブカレスト条約によりベッサラビアとして帝政ロシアに併合される。第一次世界大戦終了後の1918年、ベッサラビアは独立宣言して、同年ルーマニアの一部になる。
ソビエト連邦は1940年6月にベッサラビアを占領、モルダビア・ソビエト社会主義共和国が建国されソ連の一部となる。これは一部戦略的に重要な黒海沿岸などをウクライナ領としたもので、トランスニストニアが加わったものの面積は小さくなり、陸の孤島となった。独ソ不可侵条約が破られるとドイツ寄りの政権であったルーマニアはベッサラビアとウクライナの一部を併合してかつての形になる。1944年ソビエト軍の侵攻で、モルダビア・ソビエト社会主義共和国に戻る。スターリン政権の下、ルーマニア系住民がカザフスタンやシベリア送りとなった。
1991年8月ソビエト崩壊後、モルドバとして独立を宣言し、1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に加盟。
独立当初にはルーマニアへの再統合を望む声が多かったが、1994年圧倒的な票差で独立国家として歩むことが決まる。2001年与党の共産党が共産党員の大統領を指名、2005年再選され現在2期目となるウラディミール・ボロニンがモルドバの大統領に就任した。
[編集] 政治
国家元首は、任期4年の大統領である。議会は、一院制で101議席。
民族的、歴史的にもルーマニアと極めて近い存在であり(両国国旗が似ているのもそのため)、将来的にはルーマニアとの合併が計画されている。ただ、国内には旧ソ連時代に移住してきたロシア人が独立を主張する「沿ドニエストル共和国」を巡る争いがあり、事実上ロシアとの紛争状態に。2003年に発生したグルジアでの無血クーデターの影響を受けモルドバ国内でも政権打倒を目指す運動が加速している。また、脱ロシアを志向する諸国で1997年に結成されたGUAMには発足当初から参加している。
[編集] 地方行政区分
32の地域と5つの都市区域(ベリツィ、キシニョフ、コムラト、ベンデルイ、チラスポリ)、2つの独立自治地区(ガガウスとまだ状態について議論している分離した領域、沿ドニエストル)がある。
[編集] 地理
[編集] 気候
年平均気温 9.5-11.0℃ 年平均降水量 568-604mm 年平均降水日数 99-128日
[編集] 経済
[編集] 低迷する経済
ヨーロッパの最貧国といってもいい程の経済状態。世界銀行によると、一日1ドル(1ドル=121.53円)以下で暮らす人は国民の2割。一日2ドル(約243.06円)以下で暮らす人は国民の6割弱を占め、一ヶ月60ドル(約7291.8円)以下の生活をしている人が国民の半数以上とされる。
なぜ貧困が加速したのかを以下で分析する。
[編集] 国内紛争
1990年、ドニエストル川東岸においてロシア系住民を中心とした勢力が、モルドバ政府の民族主義的政策に反対し「沿ドニエストル・ソビエト社会主義共和国(現在の沿ドニエストル共和国)」として一方的に独立を宣言。その後1990年代前半には紛争が起き、100人以上の犠牲者を出すなど、現在でも紛争終結の目処は立っていない。この地域はモルドバ工業生産の3分の1を占めており、モルドバ側としては主要な工業地域を奪われた形になった。(※モルドバ政府の政策は工業化ではなく、農業推進型。残る3分の2で頑張ればなんとかなるという風にはならなかったのである。)
また同時期に、ベッサラビア地方に住まうガガウス人の独立運動も発生したが、こちらはモルドバ政府側の大幅な譲歩でガガウス独立自治区という独自の自治権をガガウス側が持つことで収拾。(ガガウス人は歴史的にトルコとの付き合いが強く、現在ガガウス自治区に対して、トルコより経済援助が行われている。)
[編集] 地理的要因
国内に資源が乏しく、石油やガス、鉱物資源などを国外からの供給に依存している。これらは当然無償ではなく、輸入しているので毎年資源部門は赤字となるうえ、財源の乏しいモルドバは、過去に何度かその供給を滞納を理由に止められている。工業化に際しての問題点はこの資源面にもある。
また、モルドバの主要なエネルギー供給源であるロシアは近年、旧ソ連諸国に対するエネルギー資源輸出に関する優遇処置を撤廃する動きを強めている。それまでの割安な価格での石油・ガス供給に慣れていたモルドバにとって、この動きはただでさえ不安定な経済をさらに混乱させる要因となっている。
[編集] ロシアの経済危機の余波
モルドバ経済は資源供給などロシアに依存する面が多く、そのためロシア経済の影響を大きく受ける。ところがそのロシアで、
- 1992年から1995年のロシア国内のハイパーインフレーション。
- 1998年のロシア通貨危機。
と立て続けに経済危機が発生。それに伴い、モルドバ経済も大きなダメージを受けた。
[編集] IMF(国際通貨基金)・世界銀行主導の急速な市場経済化
ソ連が崩壊した原因は急速な市場経済化であった。反対に同じく社会主義国の中国はどうかというと段階的な市場経済化を行っている。そしてモルドバはソ連独立を喜んで誕生したが、現在の貧困過疎化等から国民の中にはソ連時代の方がまだ良かったという人まで増えている状態である。遂に政党も共産党が旧ソ連圏の中で初めての第一党となった。ロシア寄りの経済をいこうとする共産党だが、IMFはアメリカ寄り。そしてモルドバの最大の援助国は1位アメリカ、2位ドイツ、3位オランダ、4位日本とある。つまり、ロシアは援助国では無い。旧宗主国との付き合いに縛られるのは市場経済化にとっては良いことではない。IMF/世銀は国際収支の改善、インフレの安定を目的とする政策を掲げている。国全体の力を挙げれば貧困は解決するという考えからだ。
それに対し、ユニセフは「ヒトを無視した改革は真の貧困解決ではない」と反論している。エイズ患者の増加や相次ぐ人身売買の送り国の現状の解決の為にも貧困の解決は急務だが、IMFの方法は失業率を悪化させ、新たな貧困を生むので良くないと批判している。
[編集] 産業
モルダヴィアのワインの系譜につながるワインが、名産品として造られている。
[編集] 国民
[編集] 民族
モルドバ人(ルーマニア人)(約78.2%)、ウクライナ人(8.4%)、ロシア人(5.8%)、ガガウズ人(4.4%)、ブルガリア人(1.9%)の順に多い。ほかにドイツ植民者など。また、かつてはユダヤ教徒のシュテットルがある一大中心地であった。およそ100年ほど前キシニョウの人口の50%以上がユダヤ人だった。同時期に建設されたモルドバの博物館は当時の住民比率を反映してか中東的建造物をモチーフにしたデザインになっており、同国の他民族性を表現した物だという。ロシア及びソ連による統治が長かったため、ルーマニアとは異なりロシア風の姓を名乗っているモルドバ人が多い。
[編集] 言語
モルドバ語(基本的にルーマニア語の方言であり多少の発音の差がある程度で相互理解には全く不自由はない)。その外、ロシア語、ガガウズ語なども使用されている。英語はキシニョウをのぞいてほぼ通じない。
同国の独立運動は、モスクワでの8月革命に先駆けて、モルドバ共和国の公用語をルーマニア語に戻す運動から発端している。過去の歴史において異文化による占領を多く経験してきた同国にとって、自らのアイデンティティーを確立する要素は非常に少なかった。長い間のソビエト連邦によるルーマニア文化排斥政策にも関わらず、奇しくも日常的に使用する言葉としてルーマニア語が生き残ったことが、ルーマニア民族であるという主張を裏付ける説得要因であったが為に、必然的にソビエトからの独立を突き動かす原動力となっていったのではないかと考えられている。80年代後半には当時の歴史学者、作家他知識人達が主導して言語奪回運動を組織し、当時モルドバ・ソビエト議会議長だったミルチャ・スネグルを巻き込んで、ルーマニア語を公用語に定めた。
8月31日は"Limba Noastră(我らが言語)"と呼ばれる祝日で、1989年の同日に公用語をルーマニア語にし、キリル文字表記から本来のラテンも表記に変更されたことを毎年祝賀している。首都キシナウにはこれにちなんだ8月31日通りが存在する。
モルドバ共産党党首のウラディミール・ボロニンが大統領に就任して以降、この言語の日の存続が危うくなっている。2006年に、共産党政権は、17年間にわたって伝統的にLimba Noastrăの日が祝賀されていた広場においての、公式イベントの実施を禁止した。翌年2007年にはLimba Noastrăの日を解体する計画が立てられている、という噂も流れている。 モルドバの独立とルーマニア語の再獲得とを切り離せない同国において、この共産党の政策は歴史の逆行と同等であり、初代大統領スネグルを含め、様々な懸念が各所から噴出している。
2006年3月に、ロシアがモルドバのワインに対して禁輸政策を打ち出し経済制裁を敷いたが、この交渉の際に禁輸政策他経済制裁を解く対価として、ロシア側のウラジーミル・プーチン大統領がモルドバ国内におけるロシア語の擁護をボロニン大統領に要請したという噂が立つほどに、この国における言語の在り方は繊細な問題であると言える。
共産党政府は、ルーマニア歴史過程をロシア寄りの歴史解釈を教える統一歴史過程に置き変える政策を打ち出して、学校におけるロシア語教科のウェイトを増やした他、ルーマニア語・フランス語学校などモルドバ内に住む他言語住民の学校名をモルドバ語・フランス語学校に変えるなどといった政策を展開させ、議論のみならず多数住民との間の対立を深めている。
モルドバ人にとってルーマニア語は誇りであるとされ、その響きの美しさが他言語を話す者をも魅了すると自負することが多い。2005年に行われた住民に対する調査においては、9割以上が自らをモルドバ人だと答え、同時に半数以上が自らの言語をルーマニア語だと答えており、大多数のモルドバ人が、自らをルーマニア語を話すモルドバ人(モルドバ共和国の住民の意)であると主張する様である。また、モルドバを代表するグループだったO-ZONEも「Nu Ma Las De Limba Noastră」(僕らの言葉は渡さない)を歌っている。
[編集] 宗教
東方正教会が主。1992年、モルドバの東方正教会から、ベッサラビア府主教管区が分離し、ルーマニア正教会の管轄下に入った。
[編集] 軍隊
陸軍と空軍があり、旧ソビエト連邦軍を引き継いで結成された。国軍は、3個歩兵旅団、1個砲兵旅団、1個対空ミサイル旅団、1個混成航空団から成り、約1万人。
1992年10月30日には、欧州通常兵器制限条約を批准、1994年10月には核拡散防止条約に加入した。また、1994年3月16日には、NATOのPFP加盟国となっている。
イラクにおけるアメリカの軍事作戦にも参加している。
[編集] 観光
積極的でないが、観光収入は4500万ドルで観光客は年間1万8000人。観光の見所は、首都のキシニョフと全国の要塞と城塞で特にドニエストル川沿いの円形要塞のソロカである。観光に最適な時期は葡萄の収穫時期の10月でワイン祭りが行われる。 2007年1月1日より、日本国民がモルドバに入国する際のビザ(査証)が免除された。
[編集] 有名な出身者
- モルドバ人の一覧参照
[編集] 文化
- 2004年~2005年に世界的な大ヒット、日本でも「飲ま飲まイェイ!」で話題になった「恋のマイアヒ(DRAGOSTEA DIN TEI)」はモルドバ出身の男性3人組「O-Zone」がモルドバ語で歌っていたもの。
[編集] 関連項目
- モルドバ関係記事の一覧
- ルーマニア モルダヴィア ベッサラビア ブジャク
- ロシア ソビエト連邦
- 沿ドニエストル共和国 Dniester Moldovan Republic; Transnistria
- ガガウズ共和国
[編集] 外部リンク
[編集] 公式
[編集] その他
- 世界の国々 > ヨーロッパ
-
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