マリアナ沖海戦
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マリアナ沖海戦 | |
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米軍の攻撃を受ける空母瑞鶴と駆逐艦2隻 |
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戦争: 太平洋戦争 | |
年月日: 1944年6月19日~20日 | |
場所: マリアナ諸島周辺海域 | |
結果: アメリカの完勝、日本の完敗 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
指揮官 | |
小沢治三郎中将、栗田健男中将、角田覚治中将 | レイモンド・スプルーアンス大将、マーク・ミッチャー中将 |
戦力 | |
航空母艦9、戦艦5、重巡洋艦11、軽巡洋艦3他 | 航空母艦15、戦艦7、重巡洋艦8、軽巡洋艦12他 |
損害 | |
航空母艦3沈没、航空母艦4、戦艦1、重巡洋艦1損傷 | 航空母艦1、戦艦2、重巡洋艦1損傷 |
マリアナ沖海戦(マリアナおきかいせん)はマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で1944年6月19日から6月20日にかけて行われたアメリカ海軍空母機動部隊と日本海軍空母機動部隊の海戦。アメリカ軍側の呼称はフィリピン海海戦(Battle of the Philippine Sea)である。アメリカ軍がマリアナ諸島に進攻を行い、それを妨害するために日本軍が迎撃したことにより発生した。日本海軍がアメリカ軍との決戦を意図したものであり、両軍の空母同士の航空決戦となった。この海戦に日本軍は大敗し、マリアナ諸島はアメリカ軍が占領することとなった。なお、日本側の作戦名称は「あ号作戦」、「あ号作戦」の「あ」はあめりかの「あ」よりきている。
目次 |
[編集] 海戦前
1943年後半からアメリカ軍は中部太平洋での攻勢を本格化させ、11月にはギルバート諸島タラワ環礁、マキン環礁を占領、1944年2月にはトラックを空襲すると共にマーシャル諸島へ侵攻し占領した。さらに3月にはパラオを空襲し在泊艦艇および基地施設に多大な損害を与えた。そして4月にはニューギニア島のホーランジア、アイタペに上陸した。
この状況を受けて連合艦隊司令部では、5月から6月にマリアナか西カロリン方面への侵攻が行われると判断した。しかし、タンカー不足によりマリアナ方面での決戦は無理があり、パラオ近海において決戦を行うこととした。そのためにグアム、サイパン、テニアンの兵力を強化して敵をパラオ方面へ誘い込み、機動部隊と基地航空隊によって撃破するという作戦を立てた。この作戦を「あ号作戦」という。
しかしながら、3月31日に起こった海軍乙事件により、「あ号作戦」のもとになる「Z作戦」計画書を米軍が入手し、その暗号を解読していた。米軍は把握した日本海軍の兵力、航空機や艦船の数、補給能力等の情報をもとに約1ヶ月で作戦を立案した。生存する当事者が公にしなかったため、日本海軍は「Z作戦」計画書が米軍に渡った事を知らなかった。
5月16日、リンガ泊地にあった小沢治三郎中将麾下の第一機動艦隊はタウィタウィ泊地へ進出した。 タウィタウィではアメリカ潜水艦の跳梁により、駆逐艦4隻(6月6日水無月、6月7日早波、6月8日風雲、6月9日谷風)が撃沈された。このため十分な洋上訓練が行えず、航空機搭乗員の練度不足は「あ号作戦」に影響を及ぼした。
5月20日、豊田副武連合艦隊司令長官は「あ号作戦」開始を発令した。
5月27日、連合軍はビアク島へ上陸を開始した。日本軍はビアク島救援の作戦、渾作戦を行った。 しかし、6月11日、アメリカ軍がマリアナ方面に来襲し、渾作戦は中止された。
6月13日、豊田長官は「あ号作戦」決戦用意を発令した。第一機動艦隊はギマラス泊地に移動後15日に出撃しマリアナ方面へ向かった。渾作戦参加部隊も出撃し、16日に機動艦隊と合流した。
6月15日、アメリカ軍はサイパン島へ上陸を開始した。同日、豊田長官はあ号作戦決戦発動を発令した。しかし、基地航空隊はこれまでの戦闘でほぼ壊滅状態になっていた。
[編集] 参加兵力
[編集] アメリカ軍
中部太平洋艦隊
- スプルーアンス大将
- 第五艦隊
- ミッチャー中将
- 第38任務部隊(空母7、軽空母8 搭載機数891機)
- 第1機動群(任務群)
- 空母:ホーネット、ヨークタウン 軽空母:ベロー・ウッド、バターン
- 重巡:ボストン、キャンベラ、ボルチモア 防空巡:オークランド、サンファン 駆逐艦14
- 第2機動群
- 空母:バンカーヒル、 ワスプ 軽空母:モントレー、カボット
- 軽巡:サンタフェ、モービル、ビロクシー 駆逐艦12
- 第3機動群
- 空母:エンタープライズ、レキシントン 軽空母:プリンストン、サン・ジャシント
- 重巡:インディアナポリス 軽巡:バーミンガム、クリーブランド 防空巡:リノ 駆逐艦13
- 第4機動群
- 空母:エセックス 軽空母:カウペンス、ラングレー
- 軽巡:ビンセンス、マイアミ 防空巡:サンディエゴ 駆逐艦14
- 第7機動群
- 戦艦:ワシントン、アイオワ、ニュージャージー、サウス・ダコタ、インディアナ、アラバマ、ノース・カロライナ
- 重巡:ニューオーリンズ、ミネアポリス、サンフランシスコ、ウィッチタ 駆逐艦14
- 海兵隊
- 第3海兵師団
- 第4海兵師団
- 第5海兵師団
- スミス少将
- 第27歩兵師団(増援部隊)
[編集] 日本軍
第三艦隊 第一機動艦隊(空母5、小型空母4 搭載機数498機)
第一航空艦隊 第五基地航空部隊 角田 覚治中将
- 第二二航空戦隊
- 第二三航空戦隊
- 第二六航空戦隊
- 第六一航空戦隊
- 守備隊三万人
[編集] 戦闘経過
[編集] 6月19日の戦闘
19日、早朝に索敵機を発進、7時半頃に前衛の部隊から64機と甲部隊から128機の第一次、第二次攻撃隊を発進させるが甲部隊の攻撃隊は味方の誤射で被害を受けた。双方の攻撃隊は2時間から3時間の時間をかけて米第38任務部隊に到達。アメリカ軍はレーダーで日本軍の第一次攻撃隊を探知すると、あるだけの戦闘機を投入し、約150機を撃墜した。この攻撃で防空網をくぐりぬけた機のうち、1機が戦艦「サウス・ダコタ」に突入した他、空母「バンカーヒル」と重巡洋艦「ミネアポリス」に至近弾で損傷させた。
9時15分、乙部隊から第二波の第三次攻撃隊49機、10時15分に第四次攻撃隊50機(それぞれ誘導機含む)を発進させるが、別働隊と誘導機が進路(目標)変更の受信を逃した上、本隊も米第38任務部隊を発見できずに引き返し、7機が未帰還となる。第四次攻撃隊は攻撃後にグアム島かロタ島経由でヤップ島へ向かうように指示されたが、米艦隊を発見できずにグアム島付近で戦闘機の迎撃を受け約25機が撃墜された。
8時10分、空母「大鳳」が潜水艦「アルバコア」の雷撃を受け魚雷1本が命中、11時20分には空母「翔鶴」も潜水艦「カヴァラ」の雷撃により魚雷4本が命中し、14時10分に沈没。そのすぐ後に大鳳が漏れだしたガソリンに引火して爆発炎上、14時30分に重巡洋艦「羽黒」に旗艦を移し、大鳳は17時頃に沈没した。この不沈艦とされた大鳳がたった一発の魚雷で沈没してしまった事実は、軍首脳に大きな衝撃を与えた。
また、大鳳の修理作業の後、第五次攻撃隊18機(28機の予定だった)が発進したものの、米第38任務部隊を発見できず、ほとんどが引き返し、一部は不時着、9機が未帰還となった。10時30分、乙部隊から第六次攻撃隊15機が発進し、本隊8機が13時40分頃に米艦隊を発見、空母を目標に攻撃した。しかし、戦果を上げられず、6機が撃墜された。
第六次攻撃隊の「彗星」隊と第四次攻撃隊の「九九艦爆」隊の共同攻撃を企図したという証言はあるが、連絡や指示された証拠はない。総じて乙部隊の第二航空戦隊は連絡の不徹底、通知を怠った模様。
17時10分、小沢中将が立て直しのために北上を命じるまでに6次にわたる攻撃隊を送るが、米艦隊の艦艇は被害らしい被害を受けずに攻撃隊の大半を撃墜し、空戦で29機の戦闘機損失に留まる。
[編集] 6月20日の戦闘
20日の午前、小沢中将は旗艦を羽黒から瑞鶴に移した。米第38任務部隊は15時40分に日本機動部隊を発見し、16時過ぎになってその戦力を確認、ミッチャー中将は帰還が夜になってしまうことを覚悟の上で216機の攻撃隊を出撃させた。16時15分には日本軍側も米艦隊を発見し、17時25分に甲部隊、唯一の空母「瑞鶴」から7機の雷撃機を発進させ、前衛の栗田中将に夜戦のため東進を命じた。17時30分、米第38任務部隊から発進した攻撃隊が来襲し、空母「飛鷹」が沈没、他の空母「瑞鶴」「隼鷹」「千代田」も損傷してしまった。米攻撃隊は20機が撃墜され、帰還した機のうちの80機が着艦に失敗した。小沢中将は残存空母を率いて夜戦のため東進を続けたが、19時40分頃、連合艦隊長官の豊田副武大将から離脱が命じられ、21日、小沢中将は「あ号作戦」を中止し撤退した。
[編集] 結果
この戦いで機動部隊を率いる小沢治三郎中将は、日本海軍の艦載機の特徴である航続距離の長さを活かし、アメリカ艦載機の作戦圏外から攻撃部隊を送り出すと言う独自の戦法(アウトレンジ戦法)を採用した。しかしながら、レーダーを活用した戦闘機の迎撃、また近接信管(VT信管)を搭載した対空砲の増強などにより、日本海軍の攻撃隊は大半が阻止された。また、空母が相手との距離を縮めないように同じ海域をウロウロしたため次々と敵潜水艦の餌食となってしまった。ただアウトレンジ戦法で出撃した飛行機の帰りを他の地点で待つのは出撃した搭乗員としては負担のかかる行為であり、一定の場所に留まるのが妥当な策である。それと対潜レーダーに搭載される真空管の不調により、対潜装備が満足ではない駆逐艦が護衛についていたのも要因であり、艦数も不足していた。
そして米軍の進攻目標を読めなかった軍令部も連合艦隊司令部も決戦地はマリアナでなくパラオと判断していたことから、重要兵力である第一航空艦隊の主力をパラオ方面に移動させ、それはマリアナ戦には何ら寄与しなかった。 日本側はこの戦いで「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」など空母3隻、航空機約200機を失い、第一機動艦隊は海上航空戦力としての能力を著しく喪失した。又、この後絶対国防圏の要ともいうべきサイパン島を失ったことは日本の敗戦を決定的にした。この海戦によって日本の連合艦隊、特に空母部隊が壊滅的な損害を受け、二度と機動部隊中心の作戦を行う事ができなくなった。しかし、この海戦で空母と航空機を除いた殆どの艦、特に戦艦・重巡を中心とする水上打撃部隊は、ほぼ無傷であることから、その後の米軍フィリピン侵攻での、水上部隊によるレイテ湾突入作戦・「捷一号作戦」に結びつくのである。またこの作戦が失敗に終わると予測していた搭乗員も多数おり、「あほう」作戦とも揶揄された。[要出典]
[編集] アウトレンジ戦法の考察
マリアナ沖海戦では、日本機動部隊の搭乗員練度の低下が、作戦遂行に決定的な影響を及ぼしたという根強い定説がある。 「この戦い以前に艦載機搭乗のために養成された搭乗員は、ソロモン諸島(ガダルカナル、ブーゲンビル)近海における約一年に及ぶ消耗戦(特に1942年10月の南太平洋海戦、1943年4月の「い号作戦」、1943年11月の「ろ号作戦」)の結果地上での任務に就き、しかもその多くを失っていた。そのため艦載機に必要な技量を持たない練度の低い搭乗員の比率が極めて高かった。隊員の練度の低さが露呈したのはこの海戦の前ではなく、1944年当時の日本海軍全体に言えることであった。従って、長距離の飛行を行うことは困難であった」
上記の記述は間違いではないが、現実には、こうした作戦での損失はあったものの、練習航空隊卒業後4年以上を経たベテラン搭乗員の数は、開戦時よりもマリアナ沖海戦ごろの方が総数として多かった(ただし、海軍航空自体の総数が大幅に増えているため、新米パイロットも大幅に増えていることに注意)。マリアナ沖海戦でも、搭乗員戦死者に真珠湾攻撃の参加者が約40名含まれているなど(生存者もおられるので、実際にはもっと多いと推定される)、空母の基幹搭乗員にはベテランが多くみられ、新米ばかりというのは誤りである。なお、一般に精鋭とされる真珠湾攻撃時の機動部隊にも、練度の低い搭乗員は見られる。例えば最精鋭とされる一航戦(赤城・加賀)でさえ「艦戦/練度A(実用機教程卒業後4年以上):32%、練度B(2年以上4年未満):24%、練度C(2年未満):41%、練度C(1年未満):3%」「艦爆/練度A:16%、練度B:25%、練度C:43%、練度C(1年未満):16%」「艦攻/練度A:22%、練度B:25%、練度C:39%、練度C(1年未満):14%」と、練度の低い搭乗員が多く含まれているのである。また五航戦では搭載機定数を満たすことができず、艦爆、艦攻18機ずつを練習航空隊などから臨時に借り受け、出撃したとされている。そうしたことから「開戦当初の精鋭に比べ、大幅に練度が低下した」という定説は正確とは言えない。
実際に、アウトレンジによる遠距離攻撃の不利があったにもかかわらず、攻撃隊はほぼ索敵機の指示通りの地点までは進出しており、1航戦は3回159機を出して128機が到達、到達率80.5%、2航戦は2回115機を出して36機で、到達率31.3%、3航戦は1回66機出して56機到達で到達率84.8%と、平均しても60%程度は敵艦隊に到達している。これはソロモン戦当時の空母攻撃隊到達率と大差ない値であり、練度が低いのでアウトレンジが失敗したという定説が、必ずしも正しいものではないことが伺える(なお、索敵機が示した位置に敵艦隊がいるとは限らないし、索敵機の報告位置が必ずしも正しいとは限らない。従って「索敵機の提示位置にたどり着いた=敵艦隊到達」とはならない。有名なミッドウェー海戦の利根4号機も実際の敵艦隊とは違う位置を報告している)。
また、日本機の未帰還要因には、よく言われる敵戦闘機の迎撃だけでなく、誘導機の喪失による帰投失敗が含まれていると考えられる。例えば128機の規模で、96機の損害を出した6月19日における一航戦攻撃隊だが、この攻撃に参加していた彗星隊隊長機は、一〇五三の攻撃開始時には、攻撃隊全機がほぼそろっていたと報告している。この攻撃隊の離脱は一一一〇であり、(日本側報告によると)40機以上のF6F戦闘機、及び敵艦隊の対空砲火が、わずか17分で日本機96機を撃墜したと考えるのは無理がある。例えば、空振りに終わった二航戦第一次攻撃隊49機は、同じく40機以上の敵機と空戦に入った末に帰還しているが、その損害はわずか7機でしかない。96機の被害には敵戦闘機や対空砲火の損害だけではなく、帰投失敗機が相応に含まれているのではないかということである(ただし、一航戦攻撃隊は対空砲火の中、敵空母を探して敵艦隊上空を進撃し、被害を増したという側面もある)。そうした意味では、無理なアウトレンジ攻撃が搭乗員喪失につながった可能性は高い。
なお、米戦闘機による被害が大きかった原因には、日本側の護衛戦闘機の少なさもある。日本側の空母戦闘機151機は、米軍戦闘機の32%の兵力だが、日本側空母攻・爆撃機は288機(戦爆含む)と、米側の67%に達しているのである。このように、直掩機不足も攻撃隊の損害を拡大した要因と考えられる。
また、出撃前、機動部隊がタウイタウイ泊地に閉じこめられたことで、航空機訓練が不十分だったとの説もあるが、ミッドウェー海戦時をはじめ、海戦前に充分な訓練を行ってから出撃したケースは多くない。練度低下はあったと考えられるが、それが決定的な要因だったとは考え難い。
一番大きいと思われる要素としては、一つ目は零戦や天山などはアウトレンジが可能な航続距離がある反面防御力は脆弱だった事、これは米軍の使用するグラマンF6F相手にとっては致命的な所であった。
二つ目は揃えている機体数であり、日本は米軍の護衛戦闘機の数が米軍の30%強しかない。前述した一つ目の要素通り脆弱な天山などの攻撃機には護衛戦闘機が付いていなければならないのだが、この要素が一番欠けていた事(しかし絶対国防圏の防衛からくる「あ号作戦」は敵の殲滅を目的にしていた為、これは仕方無いのかもしれないが)
三つ目は到達したとしても敵艦のレーダー等による効果的な集中防御砲火に思い切った攻撃が加えられなかった事。搭乗員の心理的要因として前述二つの要素も絡み、思う様に攻撃に対して精神に余裕を持てなかったと考えられる(敵艦上空の方が遥かに敵としては迎撃が楽になる)どちらにしても日本軍としてはアメリカとの国力・技術差が明確になった海戦であった。
[編集] 損害
[編集] アメリカ側
- 損傷
戦艦:サウス・ダコタ、インディアナ 空母:バンカーヒル 重巡:ミネアポリス
- 損失艦載機
120機、戦死76名
[編集] 日本側
- 沈没
空母:大鳳、翔鶴、飛鷹
- 損傷
戦艦:榛名 空母:瑞鶴、隼鷹、龍鳳、千代田 重巡:摩耶
- 損失艦載機
378機、航空機搭乗員戦死445名
- ア号作戦期間中36隻の潜水艦がこの海域に指向され20隻が未帰還
サイパン島における戦闘の損害はサイパンの戦いを参照。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
マリアナ・パラオ諸島の戦い |
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