シオン賢者の議定書
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『シオン賢者の議定書』(しおんけんじゃのぎていしょ、The Protocols of the Elders of Zion)とは、秘密権力の世界征服計画書という触れ込みで広まった会話形式の文書で、1902年に露語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。
ユダヤ人をおとしめるために作られた本であると考えられ、ナチスドイツに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから『最悪の偽書』とも呼ばれている。しかし反ユダヤ主義者や陰謀論者の間ではこれらの過程は無視され、「本物」として彼らの主張の根拠に用いられている。
1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン二十四人の長老」による決議文であるという体裁で、1902年にロシアで出版された。1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死(実際は伝染性の病気による病死)した為、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。
ソビエト時代になると発禁本とされた。
この本は既に発行されていたモーリス・ジョリー著『マキャベリとモンテスキューの地獄対談』(仏語、1864年)との表現上の類似性が指摘されている。地獄対話はナポレオン3世の非民主的政策と世界征服への欲望をあてこすったものである。シオン賢者の議定書は地獄対話の内容のナポレオン3世の部分をユダヤ人に置き換え、大量の加筆を行ったものとされる。このことは1921年にタイム誌が報道を行った。記者は大英博物館に保管されていたマキャベリとモンテスキューの地獄対談とシオン賢者の議定書とを比較して、その正体を明らかにした。この報道のため、英語圏ではシオン賢者の議定書の熱は冷めてしまったが、ドイツではオカルトを政策の宣伝として積極的に利用し、その中でこのシオン賢者の議定書も反ユダヤ主義の根拠として積極的に利用していく(アドルフ・ヒトラーが「内容が真実か嘘かなどはどうでもよい、この文書が存在するという事実のみが重要」と述べ、最終的にホロコーストを実施した事で知られる)。 現在、大英博物館に最古のものとして露語版「シオン賢者の議定書」が残っている。
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[編集] 日本でのシオン賢者の議定書
1918年日本はシベリア出兵を行うが、日本兵と接触した白軍兵士には全員この本が配布されていた。まず、シベリアから帰った久保田栄吉が1919年初めて日本にこの本を紹介した。後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げ、日本に帰ってくると友人の酒井勝軍にこの本を紹介し訳本を出版させたり、また自らも1924年包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した。また独自に訳本を出版した海軍の犬塚惟重とも接触した。安江と犬塚は満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ナチスドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。酒井勝軍も日ユ同祖論の本を出しているが、安江らの影響とも思われている。
また、安江仙弘が全文を紹介する以前の1923年『マッソン結社の陰謀』および『シオン議定書』と題するパンフレットが全国中学校校長協会の名前で教育界に配布されている。さらに、戦争が激しくなると旧制の中高等学校で「ユダヤ問題」が盛んに論議されるようになった。
戦後は殆ど動きはなかったが、1983年宇野正美が「ユダヤが解ると世界が見えてくる」という本を出版し一大ブームとなる。その後この本のオカルト的要素に惹かれた人たちが延々と類書の出版を続けた。
[編集] ロシア秘密警察偽造説
ロシアの秘密警察による偽造であるとする説は以下の通りである。
「当時反シオニズムを掲げていたロシア帝国のオフラーナ(秘密警察)による偽書であると断定されている。ロシア秘密警察ラチュコフスキーは、ロシア民衆の不満を皇帝からユダヤ人に向けさせるためにこの本を作成した。」
この説は雑誌『アメリカン・ヘブリュー』誌に掲載された、カタリーナ・ラートツィヴィルという人物が秘密警察当事者ゴロヴィンスキーから直接聞いたという「暴露証言」が唯一の根拠であるが、この証言では偽造が行われたのは1905年としており、1902年にはすでに「議定書」が公表されていた事実と矛盾するなど信憑性に欠け、また「表紙に大きな青インキの斑点があった」とする証言もわざとらしい。にもかかわらず確定した事実であるかのように宣伝されることが多い。
確かに、プロトコルの最初の刊行者は一般的にはロシアの神秘思想家、セルゲイ・ニルスなる人物とされ、その出版は1905年の秋とされている。しかし、実際に最初に世に出たのは、ペテルスブルグの極右紙「軍旗」であり1902年に何度か分けて掲載している。この「軍旗」にはフランスに滞在中の神智学に傾倒していた外交官の娘、ユリアナ・グリンカが持ち込んだと言われている。また、1905年には既に諸悪の根源という冊子が発行されていた。これは、革命派、社会主義者の暗殺とユダヤ人虐殺を目的とした極右団体黒百人組の創設メンバーが発行したものとも言われている。
このようにプロトコルは出所も作者も曖昧だが、後年、幾つかの状況証拠から、いずれにせよ当時フランス国内で諜報活動を行っていたロシア秘密警察の幹部が部下に命じてパリで捏造したものとみられている。
また、元ネタの本もほぼ明らかになっている点も大きい。
[編集] 参考文献
- ノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話―シオン賢者の議定書』内田樹訳。
- 四王天延孝『シオン長老の議定書』成甲書房(原著はヴィクター・マーズデンの「シオン賢者のプロトコル」より)
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