ジャン=マリー・ル・ペン
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ジャン=マリー・ル・ペン(Jean-Marie Le Pen 1928年6月28日 - )は、フランスの政治家。反EU、移民反対などを唱える極右政党国民戦線党首。男性。
[編集] 経歴
ブルターニュ地方の漁師の家に生まれた。1947年パリ大学法学部に進学し、在学中第一次インドシナ戦争に志願し従軍。帰国後トゥールーズで学生組織を率いた後、1956年にピエール・プチャード率いるポピュリスト運動から国民議会議員選挙に出馬。戦後最年少の27歳で議員に当選した。その後アントワーヌ・ピネーの一派に合流し、アルジェリア戦争に議員を休職して従軍。1958年にアルジェリア独立に反対して大統領選挙に立候補するも敗れ、選挙戦中のトラブルから左目を失明する。
その後、右翼活動を続けながら右翼諸派の糾合を画策し、1972年に国民戦線の結成にこぎつけ党首となる。主な政策は以下の内容であった。
しばしば舌禍スキャンダルを起こし、ナチスのユダヤ人虐殺やアメリカによる日本への原爆投下を「ささいなこと」と発言したこともある。1997年の総選挙では、社会党候補に暴力をふるったとして有罪となった。しかし、失業問題や移民問題が深刻化し、EU拡大への不安が募る中次第に支持を集め、1988年の大統領選では得票率14%、1995年には15%と着実な支持を得ていた。
1999年に国民戦線は内紛で分裂し、2002年の大統領選挙では泡沫候補視されていた。ところが、犯罪への社会不安から急速に支持を拡大。現職のジャック・シラク候補が、治安問題を争点にしたことも、ルペンへの追い風になった。この選挙で、外国人の帰化について「日本とスイスの国籍法[1]は完全にわれわれの考えと一致する。われわれが人種的な偏見を持っていると指摘されるのはおかしい」と主張。また、移民の間でも、ルペンが移民の中でも特にイスラム教徒の排斥を訴えた[2]。ルペンはシラク(得票率19.71%)に次ぐ16.86%を記録し、社会党有力候補リオネル・ジョスパン(16.12%)を上回り決選投票まで残った。この結果にEU諸国は騒然とし、ルペン・ショックを引き起こした。この選挙ではトロツキスト政党が共産党候補の得票を上回るなど、極左も得票を伸ばしており、「コアビタシオン」(保革共存)への不満が両極に集まったとの見方もされた[3]。
ルペンは中立性を敢えて無視したフランスマスコミの総バッシングに遭い、左派を中心とした反ルペンデモは110万人を動員。「反ルペン・反ファシズム」キャンペーンが大規模に行われ、現職のジャック・シラク候補は決選投票前の恒例となっているテレビ討論を拒否した。結果はシラクに得票率にして18対82の大差で敗れた。
2005年パリ郊外暴動事件の反動から、今後さらに支持を伸ばす可能性がある。2006年1月には、2007年の大統領選に向け早々と選挙対策事務局を設置したが、出馬に必要な有権者の署名集めの段階で苦戦[4]しており、決選投票への進出以前の大統領選の出馬さえ危惧されていたが、なんとか500人の署名を確保。今回も、台風の目となる可能性がある。
[編集] 註
- ^ 両国の国籍法は出生地主義ではなく血統主義と誤解されているが、実際は日本の場合は国籍は親の血統でなく国籍によって授与される。ドイツのように何世代も前の血統が証明されれば国籍の申請ができるようなものではない
- ^ このためホロコーストを軽んじていた過去の言動にも関わらず、ユダヤ教徒の一部はルペン支持に流れたという
- ^ ルペンは支持を伸ばしたとはいえ、これまでの大統領選ならば、決選投票に残れる得票率ではなかった
- ^ 大統領選出馬には3月22日までに有権者500人分の署名を集めることを必要とするが、2月21日時点で規定数に40人足りない[1]