ジュピター (ミサイル)
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ジュピター(PGM-19 Jupiter)は、米国が開発した初期の中距離弾道ミサイル(IRBM)である。
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[編集] 概要
1957年に最初のテストが行われたジュピターIRBMは、レッドストーン短距離弾道ミサイル(SRBM)の後継としてフォン・ブラウンらの設計チームが米陸軍と共に開発した米国で二番目のIRBMである。制式番号はSM-78(後にPGM-19に改訂された)で、推力66kNを発揮する単一の液体燃料ロケットエンジンを搭載していた。また野戦機動が考慮された移動式ミサイルとして設計されている。射程の関係から米国国内には配備されず、同盟国の二箇所の基地に配備された。なお米国最初のIRBMは米空軍が開発したソアーIRBMである。
[編集] 開発
1955年9月にフォン・ブラウン博士は、先に開発したレッドストーンの設計を拡大した射程1,500マイル(2,400km)の液体燃料(液体酸素(LOX)とケロシン(RP-1))長射程ミサイルに関するブリーフィングをウィルソン国防長官に対して行った。
1955年12月に、陸軍長官と海軍長官は、陸上及び海上配備のIRBMを共同で開発する計画を発表した。それまで米国で開発されていた弾道ミサイルとは異なり、ジュピターIRBMは海軍の艦艇上で容易に扱えるように太く短いミサイルとして設計されていた。海軍は液体燃料ロケットの離床速度が固体燃料ロケットに比べて遅い事に満足せず、また艦艇上での液体燃料の取り扱いに不安を感じた結果、固体燃料を用いるJupiter-S(後のポラリスSLBM)を独自に開発する事とし、1956年11月にジュピター開発計画から脱退した。海軍の脱退にもかかわらずジュピターIRBMは依然としてずんぐりとしたミサイルのままだった。
1956年11月遅くに、国防総省は全ての陸上配備の長距離ミサイルを米空軍に所属させる事を決定した。米陸軍は射程200マイル以下(320km)の戦術地対地ミサイルに限って保持が許された。このためジュピターIRBM開発計画は米空軍所管となった。当時の米空軍はすでに自ら開発したソアーIRBMを持っており、より長射程の大陸間弾道ミサイル(ICBM)アトラスを開発中であったため、米空軍はジュピターIRBMに熱心では無かった。
ジュピターIRBMと米陸軍のもう一つのミサイルであるJupiter-Cには混乱が見られる。Jupiter-Cはレッドストーン短距離弾道ミサイル(SRBM)の改良ミサイルでジュピターIRBMとは設計が全く異なるロケットであり、レッドストーンSRBMの燃料タンクを延長して第一段とし、さらに小型の固体燃料ロケットを搭載した第二段を持っていた。Jupiter-Cは大気圏再突入テストを実行した後、1958年2月1日に米国で最初の人工衛星であるエクスプローラー一号の打ち上げに使用された。またエクスプローラー三号も打上げている。Jupiter-Cはまたジュノー(Juno)、またはジュノーI型ロケットとも呼ばれた。
サターンI型とサターンI型Bロケットは一基のジュピターIRBMのロケットエンジンの推進剤タンクに八基のレッドストーンSRBMのロケット推進剤を組み合わせて製造された強力な衛星打ち上げロケットの第一段エンジンである。
またジュピターIRBMを改造し、サージャント戦術地対地ミサイルを集合させた上段を追加した衛星/宇宙探索機打ち上げロケットが開発されている。この改造されたジュピターIRBMはジュノーII型(Juno-II)と呼ばれている。
[編集] 生物学的試験
ジュピターIRBMは準軌道(suborbital)に到達する弾道飛行を行う一連の生物学的試験に使われた。1958年12月13日、ジュピターIRBMのAM-13号機は、米国海軍が調教し「Gordo」と名付けられた南米リスザルを乗せたノーズコーンを搭載してフロリダ州のケープ・カナベラルから打ち上げられた。帰還時、ノーズコーンのパラシュートは動作に失敗し、「Gordo」は飛行から生還できなかった。飛行テスト中に送信されていたテレメーターデーターによれば、リスザルは発射時の加速度10G(10m/s2)、8分間の無重量、大気圏再突入における10,000mph(4.5km/秒)からの40G(390m/毎秒毎秒)の減速を生き抜いた。ノーズコーンはケープ・カナベラルから飛行距離1,302海里(2,411km)の位置に沈み、回収されなかった。
もう一つの生物学的飛行テストは1959年5月28日に開始された。ジュピターIRBMのAM-18号機には、体重7ポンド(3.2kg)の米国生まれのアカゲザル「Able」と、体重11オンス(310g)の南米リスザル「Baker」が乗せられた。サル達が乗ったミサイルのノーズコーンは高度360マイル(579km)達したあとケープ・カナベラルから1,700マイル(2700km)離れた大西洋のミサイル演習場に落下した。サル達は正常な重力の38倍の加速と9分間の無重力に耐えた。16分の飛行の間に速度は最高で10,000mph(4.5km/秒)に達した。「Able」と「Baker」を乗せたジュピターIRBMのノーズコーンは、着水した後に米海軍の艦隊航洋曳船カイオワATF-72によって回収された。
- 訳注:宇宙飛行士が英雄視されるようになった後の時代には、有人再突入カプセルの回収には海軍の空母が出動している。設備が充実していることが重視されたこともあろうが、宇宙開発が始まったばかりのこの時代、得体の知れない実験に使用されたサルの回収には軍艦では無くタグボートのような補助艦艇で十分という事であろう。
サル達は飛行テストを良好な状態で生き延びた。飛行テストから四日後、「Able」は医学的な状態をモニターするために体内へ挿入されていた電極を取り去るための外科手術をうけたが、麻酔の反応によって死んだ。「Baker」は無事に生き延び、1984年11月29日にアラバマ州ハンツビルのアラバマ宇宙・ロケットセンターで死んだ。
「Gordo」、「Able」、「Baker」は宇宙に送られた多くのサルのうちの3匹である。
[編集] 配備
1958年4月に国防総省は、最初の三個ジュピターIRBM大隊(ミサイル45機)をフランスに試験的に配備する計画を米空軍へ通知した。しかしながらフランスと米国の間の協議は1958年6月に失敗した。フランスの新しい大統領となったシャルル・ド・ゴールはジュピターIRBMのフランスへの配備受け入れを拒否した。これによって米国はイタリアとトルコへのミサイル配備の可能性を探りはじめた。すでに米空軍は英国のノッティンガム周辺にソアーIRBMの四個大隊(ミサイル60機)を配備する計画を進めていた。
1959年4月、空軍長官は二個ジュピターIRBM大隊をイタリアに配備する実施命令を空軍に出した。1961年から1963年まで合計30機のミサイルを持つ二個大隊がイタリア国内の10のサイトに配備された。ミサイルサイトはNATOの戦力としてイタリア空軍の要員によって運用されたが、核弾頭の安全装置の制御は米国空軍の人員によって行われた。これらのミサイルはイタリア南部のプッリャ州にありワインで知られるジォイア・デル・コッレ(Gioia Del Colle)空軍基地に配備され、イタリア空軍第36戦略航空阻止大隊(36゚Aerobrigata Interdizione Strategica)によって運用された。1962年、ブルガリアのMiG-17偵察機が領空侵犯の後にイタリアのジュピターIRBM発射サイトのうちの一つの近くにあるオリーブの木立ちに墜落したと報告されている。
1959年10月、トルコと米国の政府間協定に署名がなされ、3個目で最後のジュピターIRBM大隊の配備が決まった。米国とトルコはNATOの南側面に一個ジュピターIRBM大隊を配備するための協定を結んだ。
1961年から1963年まで合計15機のミサイルを持つ一個ジュピターIRBM大隊がトルコのイズミル(Izmir)近くに五箇所の発射サイトに分散して配備され、米空軍の人員によって運用された。3機のジュピターIRBMの最初の発射は、1962年10月遅くのキューバミサイル危機の間、トルコ空軍(Turk Hava Kuvvetleri)に委譲された。核弾頭の安全装置は米国空軍の人員によって制御された。トルコ国内に配備されたジュピターIRBMの実際の展開位置は、40年以上経過した今でも機密となっている。1961年にトルコのミサイル展開に加わった何人かによると、 5つのサイトのうちの1つがマニサ(Manisa)付近の山中にあり、別のサイトがアッキサル(Akhisar)近くの山中にあった。中心的な展開基地はチーリ(Cigli)空軍基地であった。
ジュピターIRBMが配備されたイタリアの基地において、1961年の10月半ばから1962年8月の間に威力1.4MT(5.9PJ)の熱核弾頭を搭載したジュピターIRBMへ四回の落雷があった。いずれの場合でも熱電池は動作し、うち二つのケースにおいて三重水素-重水素「ブースト」ガスの安全装置が外れ、弾頭に注入された。ジュピターIRBMへの4回目の落雷の後に、米空軍は落雷防護用のprotective lightning strike-diversion tower arraysをイタリアとトルコの全てのジュピターIRBMのミサイルサイトに配置した。
- 訳注:現在のような地下サイロベースの配備やTEL車両による機動配備とは異なり、当時の弾道ミサイルの多くは野外にむき出しで配備されていた。このため落雷を受けやすくまた敵の攻撃には脆弱だった。
トルコに配備された時点ですでにジュピターIRBMは時代遅れとなっており、ソ連の攻撃には無防備の状態であった。ジョン・F・ケネディ大統領は、1961年1月に就任するとすぐに、すべてのジュピターIRBMの退役を命令している。しかしながら空軍は退役を延期し、1年後に大統領がこの事を知ると、彼は激高したといわれる。その後のキューバ危機の際、米国はトルコ配備のジュピターIRBMを交渉材料に用い、トルコのジュピターIRBMを撤去するのと引き換えにキューバからR-12(SS-4)を撤去させることに成功する。すべてのジュピターIRBMは1963年4月までに作戦配備からはずされた。
[編集] 要目
[編集] ジュピターIRBM
- 全長: 60フィート(18.3m)
- 直径: 8フィート9インチ(2.67m)
- 燃料満載時の全備重量: 108,804ポンド(49,353kg)
- 燃料未搭載時の自重: 13,715ポンド(6,221kg)
- 酸化剤(液体酸素)重量: 68,760ポンド(31,189kg)
- 燃料(ケロシン(RP-1))重量: 30,415ポンド(13,796kg)
- 推力: 150,000lbf(667kN)
- エンジン: ロケットダイン社(Rocketdyne)製 LR70-NA (Model S-3D)
- 比推力(ISP): 247.5 lbf・s/lb (2.43 kN・秒/kg)
- 燃焼時間: 157.8秒
- 推進剤消費率: 627.7lb/s(284.7 kg/秒)
- 制御: ジンバルで安定化された可動ノズル(±7度)による推力偏向制御
- 射程: 1,500マイル(2,410km)
- 飛行時間: 1,016.9秒
- 遮断速度: 8,984mph(14,458km/時) - マッハ13.04
- 再突入時の速度: 10,645mph(17,131km/時) - マッハ15.45
- 加速: 13.69g(134m/毎秒毎秒)
- 最大減速加速度: 44.0g(431m/毎秒毎秒)
- 最大高度: 390マイル(628km)
- CEP: 4,925フィート(1,500m)
- 弾頭: 溶融断熱式のMk.3/4再突入体に威力1.45MtのW-49熱核爆弾(重量1,650ポンド(750kg))を搭載
- 信管: 近接信管、及び接触信管
- 誘導: 慣性
[編集] ジュノーII型
ジュノーII型打上げロケットはジュピターIRBMから派生した四段式衛星打上げロケットで、10回の衛星打ち上げに使用され、うち6回の打上げに失敗した。ジュノーIIによって打上げられた人工衛星は、パイオニア三号、同四号、エクスプローラー七号、同八号、同11号である。
- 全長: 24.0m
- 高度200km軌道へのペイロード: 41kg
- 脱出速度でのペイロード: 6kg
- 初号機発射: 1958年12月6日
- 最終機発射: 1961年5月24日
第一段 | 第二段 | 第三段 | 第四段 | |
---|---|---|---|---|
総重量 | 54,431kg | 462kg | 126kg | 42kg |
自重 | 5,443kg | 231kg | 63kg | 21kg |
推力 | 667kN | 73kN | 20kN | 7kN |
比推力 | 248 2.43 kN·s/kg | 214 2.10 kN·s/kg | 214 2.10 kN·s/kg | 214 2.10 kN·s/kg |
燃焼時間 | 182秒 | 6秒 | 6秒 | 6秒 |
長さ | 18.28m | 1.0m | 1.0m | 1.0m |
直径 | 2.67m | 1.0m | 0.50m | 0.30m |
エンジン | Rocketdyne S-3D | サージャント・ロケット11基 | サージャント・ロケット 3基 | サージャント・ロケット 1基 |
推進剤 | 液体酸素/ケロシン(RP-1) | 固体燃料 | 固体燃料 | 固体燃料 |
[編集] 発射試験
ジュピターIRBM、およびジュノーIIの全ての試験発射はフロリダ州ケープ・カナベラルにて行われた。46回の試験発射があり、そのうちの一部を以下に示す。
シリアル番号 | ミッション | 発射日付 | 備考 |
---|---|---|---|
AM-1A | AM-1A | 1957年3月1日 | 第1回発射 発射試験 ミサイルテスト 失敗 最高到達点 14マイル(23km) |
AM-1B | AM-1B | 1957年4月26日 | 第2回発射 発射試験 ミサイルテスト 失敗 最高到達点 18マイル(29km) |
AM-1 | AM-1 | 1957年5月31日 | 第3回発射 発射試験 ミサイルテスト 成功 最高到達点 500マイル(805km) |
AM-2 | AM-2 | 1957年8月28日 | 第4回発射 発射試験 ミサイルテスト 成功 最高到達点 500マイル(805km) |
AM-3 | AM-3 | 1957年10月23日 | 第5回発射 発射試験 ミサイルテスト 成功 最高到達点 500マイル(805km) |
AM-3A | AM-3A | 1957年11月27日 | 第6回発射 発射試験 ミサイルテスト 失敗 最高到達点 20マイル(32km) |
AM-4 | AM-4 | 1957年12月16日 | 第7回発射 発射試験 ミサイルテスト 失敗 最高到達点 63マイル(101km) |
AM-5 | AM-5 | 1958年5月18日 | 第8回発射 再突入試験 成功 最高到達点 345マイル(555km) |
AM-6B | AM-6B | 1958年7月17日 | 第9回発射 再突入試験 成功 最高到達点 345マイル(555km) |
AM-7 | AM-7 | 1958年8月27日 | 第10回発射 発射試験 ミサイルテスト 成功 最高到達点 345マイル(555km) |
AM-9 | AM-9 | 1958年10月10日 | 第11回発射 発射試験 ミサイルテスト 失敗 最高到達点 0マイル(0km) |
AM-11 | Juno II | 1958年12月6日 | 第12回発射 月探査機パイオニア三号打上げ 月到達に失敗 最高到達点 70,610マイル(113,640km) |
AM-13 | Bio 1 | 1958年12月13日 | 第13回発射 生物学的飛行試験 サルの「Gordo」が搭乗 パラシュート展開に失敗 最高到達点 345マイル(555km) |
CM-21 | CM-21 | 1959年1月22日 | 第14回発射 発射試験 戦術飛行試験 成功 最高到達点 345マイル(555km) |
CM-22 | CM-22 | 1959年1月27日 | 第15回発射 発射試験 ミサイルテスト 成功 最高到達点 345マイル(555km) |
AM-14 | Juno II | 1959年3月3日 | 第16回発射 月探査機パイオニア四号打上げ 月上空58,983kmを通過、太陽の周回軌道へ |
CM-22A | CM-22A | 1959年4月4日 | 第17回発射 発射試験 ミサイルテスト 成功 最高到達点 345マイル(555km) |