シャルル・ド・ゴール
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フランス共和国第5共和制初代代大統領
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任期: | 1959年1月8日 – 1969年4月28日 |
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出生日: | 1890年11月22日 |
生地: | リール |
死亡日: | 1970年11月9日 |
没地: | コロンベ・レ・ドゥ・セグリーズ |
政党: | フランス国民連合 |
配偶: | イヴォンヌ・ヴァンドルー |
シャルル・アンドレ・ジョゼフ・マリー・ド・ゴール (Charles André Joseph Marie de Gaulle) は、フランスの陸軍軍人、政治家で元大統領である。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
1890年11月20日に、イエズス会学院の校長(歴史科を教えていた)を務める父アンリの元、フランス北部の工業都市リールに生まれた。 ド・ゴールの家系は、下級貴族である。「ド・ゴール」と言う場合のゴールの前につく「ド」(ドイツ人の「フォン」と同じ)がそれを示しているが、ド・ゴール家の場合は名字の一部とみなされている。
ド・ゴールの曽祖父は、ルイ16世の法律顧問をしており、フランス革命時に、投獄されている。
父アンリは医学・理学・文学の3つの博士号をもつ碩学、熱心なカトリック教徒であったという。また、祖父ジュリアンも著名な歴史学者であったといい、ド・ゴールは幼い頃より歴史に興味をおぼえ、「フランスの名誉と伝統」に誇りを抱くようになったという。そして、ド・ゴールは、伝道師を目指していたものの、立派な体格であった事から軍人の道を選んだ。
[編集] 軍歴
[編集] 陸軍士官学校時代
先に述べた祖父・父親のもとで愛国的かつ厳格な教育を受け地元の中学校を卒業後、1909年、サンシール陸軍士官学校に入学した。ド・ゴールは、陸軍士官学校内では、「雄鶏」(フランスのシンボルの1つでもある)、「アスパラガス」そして「コネターブル(「大将軍」の意)」と呼ばれていたという。無論、全て体格に由来している。
[編集] 陸軍士官時代
卒業後は、歩兵第33連隊に陸軍少尉として配属された。歩兵第33連隊はフィリップ・ペタン(のちのヴィシー政権の指導者)の連隊だった。
第一次世界大戦では大尉としてドイツ軍と戦い、1916年、大戦中最大の激戦地ヴェルダン戦で部隊を指揮した。ドイツ軍の砲撃で重傷を負い「気絶」したが、「戦死」と判断され、死体運搬車に乗せられた。しかし輸送途中に意識を取り戻し、事なきを得たという。
なお、戦死と聞かされたペタンは、「ド・ゴール大尉。中隊長をつとめ、その知性と徳性において知られた人物である。おそるべき砲撃によって大隊に夥しい損害を出し、中隊また八方から敵の攻撃をうけた状況下に、それが軍の光栄にかなう唯一の策と判断して兵をまとめ、突撃を敢行、白兵戦を展開した。混戦のうちに戦死。功績抜群……ペタン」という個人的な感謝状を作成したという。
また、捕虜生活も経験し、それは第1次世界大戦終結まで続いた。ド・ゴールは5回脱獄を図ったものの、大柄な体だったため5回とも失敗し、インゴルシュタット城の牢獄「天女の宿」にて捕虜生活を経験した。ちなみにその牢獄には、後にロシア(ソ連)の赤軍元帥となり、スターリンによって粛清されたトゥハチェフスキーがいた。トゥハチェフスキーはド・ゴールに対し、「未来は我々のものだ、くよくよするな」と捕虜生活を慰めたという。
[編集] ポーランド軍事顧問時代
第1次世界大戦終結後、ド・ゴールは、ポーランドの軍事顧問となり、同国へ行った。当時、ポーランドは、革命ロシア赤軍の攻撃を受けており、同国首都ワルシャワに迫っていた。その時の赤軍司令官は、誰あろう、共に捕虜生活を過ごしたトハチェフスキーであった。ド・ゴールは、この戦で活躍し、「ポーランド軍少佐」の称号を得ると共に、ポーランド国から勲章も授与された。
[編集] 陸軍大学校時代
ポーランドから帰国後、サン・シール陸軍士官学校の軍事史担当教官として勤めたあと、1922年、フランス陸軍大学校に入学した。同学校では、「勤勉にして敏鋭、博学。しかし友人との折り合い悪く、性格的に円満を欠く」と評価をされている。また、陸軍大を卒業したものの、ド・ゴールは「わが道を行く」という主義を強く持っていたため、陸軍上官との折り合いが悪く、大尉から少佐への昇進に10年もかかってしまった。しかし、この間も後に敵となるペタンは、ド・ゴールをかわいがっていたという。
その後、ド・ゴールは、中東に1回赴任し、1932年には中佐となり、パリにあった軍事最高会議事務長に就任している。また、ペタンの計らいもあり、ド・ゴールは、陸軍大学校において「戦闘行為と指揮官」という特別講演も行った。この講演を文書に纏めたものが『剣の刃』である。ただ、この書は「フランス版『わが闘争』」あるいは「ド・ゴール版『わが闘争』」(ドイツのアドルフ・ヒトラーの『わが闘争』から)とも評されている。
[編集] 電撃作戦の推進
第一次世界大戦のヴェルダン戦の体験からド・ゴールは、これからの戦争は塹壕戦ではなく、機動力のある戦車や飛行機を駆使した機械化部隊による電撃作戦になることを論じ、いくつかの著書の中でそのことに言及した。
この見解は、ペタンらフランス軍の主流派には受け入れられず、その後皮肉にもアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に採用され、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍は塹壕による防衛政策を堅持したフランス軍が国境に用意した巨大要塞「マジノ線」を迂回して進軍し、フランス軍はわずか1か月間の戦いでドイツ軍の電撃作戦により撃破されてしまった。
[編集] 「自由フランス」時代
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ド・ゴールは、第二次世界大戦における諸戦の戦功により、フランス軍史上最年少の将軍となり、1940年6月にはエドワール・ダラディエの辞任により新たに首相に就任したポール・レイノー率いる新内閣の国防次官兼陸軍次官に任命され、イギリス軍の協力を得るためロンドンに飛んだ。
同年6月15日に首都のパリが陥落すると、イギリスへ亡命し、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と中立政権ではあるものの親独的な「ヴィシー政権」への抵抗をフランス国民に呼びかけた。イギリス議会や閣僚は事を荒立てることを恐れ、それを中止させようとしたが、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの指示によって放送は強行された。
また、亡命後直ちにロンドンに「自由フランス国民委員会」を結成し、自ら「自由フランス」軍を指揮してアルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心とした北アフリカ戦線で戦い、対独抗戦を指導した。しかし、当初フランス軍の多くは中立を維持するかヴィシー政権に帰属し、ノルマンディー上陸までにド・ゴールの元に集まったフランス軍勢力はほんの一握りであった。
また、その独裁的かつ強権的な姿勢から、チャーチルやアメリカ合衆国大統領のフランクリン・D・ルーズヴェルトと衝突することが多く、特にルーズヴェルトはあからさまにド・ゴールを嫌っていたという。
その後1944年6月の連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦であるノルマンディー上陸作戦が成功すると、祖国に戻って連合軍ともに戦い、同年8月25日にパリが解放された。ド・ゴールは翌26日に、自由フランス軍を率いてパリに入城、エトワール凱旋門(いわゆる、「凱旋門」の正式名称である。)からノートルダム大聖堂まで凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ大通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。[1]
[編集] 臨時政府首相
[編集] 強権的指導者
フランス解放後、フランス国民議会は満場一致でド・ゴールを「フランス共和国臨時政府」の首相に選出した。ド・ゴールは首相になると、民衆の声望を背景に、他の指導者・政党の意見を無視することが多くなり、とりわけ社会党・共産党から独裁的との批判を受けた。
1946年1月に、ド・ゴールは政策上の一致が困難であるとの理由で、突如首相を辞任した。この辞任の真意は、政党政治と議会主義に対する不満にあったといわれている。ド・ゴールは次第に、優れた指導者が国民の支持を背景に強力な政治を行うことが、政争に明け暮れる政党政治(フランスの共和制の下では多党乱立の状況になることが多かった)よりも国民のためになるという信念を持ち始めていた。彼は、この信念から1947年、「フランス国民連合」(略称RPF)を結成した。
[編集] 国営化推進
また、フランス解放後の1945年に大手自動車会社のルノーを国営化したほか、国家の復興を推進するためもあり軍需・インフラ関連の大企業の国営化を積極的に推し進めるとともに、公共投資にも力を入れた。この政策は後にド・ゴールが大統領になってからも継続された。
[編集] 第5共和制大統領
[編集] アルジェリア独立承認
1958年5月、アルジェリアのフランス植民者が、アルジェリアの独立運動に対抗するため、軍部と結託して本国政府に反旗を翻した。この緊急事態に、政府は軍部を抑えることのできる人物としてド・ゴールに出馬を要請し、ド・ゴールを首相に任命した。
ド・ゴールは、これを念願実現の好機として、直ちに、大統領に強権を与え議会の力を抑制する新憲法を立案し、これを国民投票に付した。同年9月に行われた国民投票で圧倒的な賛成を得て新憲法が制定され、第5共和政が成立、ド・ゴールはその初代大統領に就任した。ド・ゴールは、以後1969年に退陣するまでの11年間、独裁的とも言われた強権をもってフランスの内外政策を強力に推進することとなる。
しかしド・ゴールは民族自決の動きを理解しており、アルジェリアの独立は必至と判断していた(「当初は完全独立ではない緩やかな連邦制も模索したが考え直した」と後に回想している)。結局アルジェリア領有の継続を主張する右翼(OAS)のテロによる反対を押し切って、1962年、独立を承認した(→「ジャッカルの日」)。
[編集] 独自路線
また、東西両陣営の間で冷戦が続く中、ド・ゴールはアメリカとソ連の超大国を中心とする両陣営とは別の(フランスを中心とすることが濃厚に想定される)「第三の極」を作るべきだという意識を持っていた。
そこで西ドイツとは和解・協力を進める反面、アメリカ主導の北大西洋条約機構(NATO)や国際連合には批判的な態度を取り、NATO本部をフランスから撤退させた上にNATOそのものからも脱退してしまう。それと並行して国連分担金の支払いを停止し、アメリカと近い立場を取るイギリスの欧州経済共同体(EEC)への加盟拒否も表明した。
また、「フランスの安全保障が、米国の核の傘に依存せずに済む。」、との理屈で、フランス独自の核兵器の開発を推進し、1960年2月にはサハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実験に成功しアメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ核保有国となった。1964年にはイギリスを除く他の西側先進国では最も早く、共産主義政権下の中華人民共和国を承認した(なお、イギリスは隣接する植民地の香港を抱えていたため、西側諸国の中では例外的に、中華人民共和国をその建国直後に承認していた)。
[編集] 5月革命
これらの政策は、フランス国民の愛国心と誇りを高めた一方で、独自路線の結果必然的に招いた国際的孤立により国内経済の成長が阻害されたため、1968年5月、パリの学生と労働者の反抗(5月革命)を招く結果となった。この危機は乗り切ったものの、翌1969年には、彼が国民投票に付した上院及び地方行政制度の改革案が否決され、辞任を余儀なくされた。この改革案自体は議会を通過させることは不可能ではなかったにもかかわらず、ド・ゴールが側近達の反対を押し切って敢えて国民投票を行った真意は明らかではない。
[編集] 引退後
辞任後は地方の山村コロンベ・レ・ドゥ・セグリーズに住居を移し執筆活動に専念し、翌1970年11月に解離性大動脈瘤破裂により79歳で没した。
遺書には、「国葬は不要。勲章等は一切辞退。葬儀はコロンベで、家族の手により簡素に行うように。」と記されていたが、結局国葬が執り行われた。墓地は希望通りコロンベ・レ・ドゥ・セグリーズにある。
[編集] 没後
没後、フランスでは、彼の栄誉を讃え、ド・ゴールの名前を施設などに命名している。次に掲げるのは、その例である。
- 「シャルル・ド・ゴール国際空港」:パリ郊外にある国際空港の名称。
- 「シャルル・ド・ゴール」:フランス海軍の原子力空母の艦名。
- 「シャルル・ド・ゴール」:薔薇の品種名。
- 「シャルル・ド・ゴール広場」:フランスのパリの名所であるエトワール凱旋門(いわゆる、「凱旋門」である。)のある広場の名称。シャンゼリゼ通りの入口でもある。かつては、「エトワール広場」といわれていた。
- 「シャルル・ド・ゴール・エトワール駅」:フランスのパリを走るメトロとRERの駅名。
また、その政治姿勢を評価する政治家・評論家も多く、彼らはゴーリスト(ド・ゴール主義者)と呼ばれる。
[編集] 家族
1921年4月7日にイヴォンヌ・ヴァンドルーと結婚し、長男のフィリップと長女のエリザベス、次女のアンヌの3人の子をもうけた。
長男のフィリップの名は、当時の上官で後に宿敵となったフィリップ・ペタンが名付け親となり、彼自身から譲り受けた名前である。
次女のアンヌは生まれつき知的障害を持っていたが、ド・ゴールはアンヌが20歳で亡くなるまで、惜しみなく愛を注いで育てたと伝えられている。また、妻のイヴォンヌはアンヌの死をきっかけとして「アンヌ・ド・ゴール基金」を設立し、恵まれない子どもたちへのの援助を行った。
[編集] エピソード
- ド・ゴールは「わが道を行く」という姿勢をあらゆる局面で強固に貫いたこともあり、遭遇した暗殺未遂事件は31件に及ぶ。
- 好物はシチュー、野菜と肉の煮込み、ロールキャベツなどで、アルコールはワインを少々飲んだ。食欲はきわめて旺盛だったという。
- 糖尿病を患っていたものの、規則正しい生活や食餌療法によって血糖をうまくコントロールしていたという。
[編集] 語録
- 「希望は消えねばならぬのか。われわれは最終的には敗けるのか。ノン。フランスはひとりぼっちではない。」
- 「偉大なことは、偉大な人間がいなければ決して達成されない。 そして、人間は偉大になろうと決意して初めて偉大になれるのだ。」
- 「人はなろうとした人物しかなれない。だからといって必ずしも良い条件に恵まれるわけではない。だが、なろうという意志がなければその人物には決してなれないのだ。」
[編集] 著書
ド・ゴールは歴史や文学に通じた一級の教養人であり、その文章は多くの批評家から評価されている。
- 「剣の刃」(Le Fil de l'Epee)
- 「戦争回想録」(Memoires de Guerre)全3巻など。
[編集] 映画
- 『ジャッカルの日』 - The Day Of The Jackal ド・ゴール暗殺計画を描いたフレデリック・フォーサイスの小説。
[編集] 関連項目
- フランソワ・ミッテラン
- ウィンストン・チャーチル
- 第一次インドシナ戦争
- ベトナム戦争
- ジャック・シラク(ゴーリストとの評がある。)
- ド・ゴール主義
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