ジョッコ・コンラン
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ジョッコ・コンラン(John Bertrand "Jocko" Conlan、1899年12月6日 - 1989年4月16日)は、アメリカ・メジャーリーグの審判。1899年シカゴ生まれ。愛称の"ジョッコ"は『猿』のこと。審判の際のハッスルぶりに由来する。
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[編集] 経歴と功績
- 1934年にシカゴ・ホワイトソックスから外野手としてデビューする。
- 人生の転機となったのは1935年のことで、セントルイス・ブラウンズとの試合中、審判のうちの一人(Red Ormsby氏)が発熱のため試合を離れ、コンランがその代わりを務めることになった(当時は一試合審判二人制が普通であった)。コンランは審判職を気に入り、その年で選手を引退して審判としてのキャリアを歩むことになる。
- 以後、メジャーリーグでの審判歴は24年に及ぶ。的確な判定と持ち前の明るいキャラクターで、選手や監督たちの信頼は厚かったという。またコンランにはいくつかのトレードマークがあった。当時のリーグ審判の服装は、普通のネクタイにインサイドプロテクターが基本だったが、彼はその経歴から水玉模様の蝶ネクタイと、空気式のアウトサイドプロテクターを許されていた。
- 1965年に審判職を退職。1974年、ベテラン委員会により、審判としては4人目のアメリカ野球殿堂入りを果たす。
- 1989年、アリゾナ州スコッツデールで死去。享年89。
[編集] 選手歴
- 所属:シカゴ・ホワイトソックス(1934,1935年)
- ポジション:中堅手
- 通算成績:128試合、365打数96安打、31打点、本塁打0、打率.263
[編集] 審判歴
- アメリカンリーグ(1935年)
- ナショナルリーグ(1941-1965年)
- レギュラーシーズン:3613試合
- ワールドシリーズ:27試合(1945,1950,1954,1957,1961年)
- オールスターゲーム:6試合(1943,1947,1950,1953,1958,1962年)
[編集] エピソード
- 監督をしていたレオ・ドローチャーとの衝突は有名で、判定に抗議するドローチャーと何度か蹴りあいになったこともあった(通常、抗議で審判に手を出せば即刻退場である)。
- 野球の審判になる前から、ボクシングのレフェリーの資格を持っていた。
- 息子(John Bertrand Conlan)は、5年間アメリカ下院議員を勤めていた。