ジョー・ザヴィヌル
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ジョー・ザヴィヌル(Joe Zawinul、Josef Erich Zawinul、1932年7月7日 - )は、オーストリアのウィーン生まれのジャズ・フュージョン・ピアノ・シンセサイザー奏者。
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アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツの支配下にあったウィーンで育つが、その才能を見出され奨学生としてウィーン音楽院に入学する。 まもなく自分の求めるものがクラシック音楽ではない事を悟ると、すぐにジャズに心惹かれるようになる。 1959年にダウンビート紙上のバークリー音楽院の奨学生募集の記事を見つけ、これを利用してボストンもといニューヨークを目指して渡米する。 しかし学業もそこそこに3週間後にはメイナード・ファーガソンのバンドオーデションに合格しボストンを後にした。 1961年にはアルトサックス奏者キャノンボール・アダレイのバンドメンバーとなり、およそ9年間在籍した中で「マーシー・マーシー・マーシー」等のビッグヒットを飛ばした。この曲でのエレクトリック・ピアノを使用した彼のプレイに目を付けたマイルス・デイヴィスに声を掛けられて、1969年に「In a Silent Way」や「Biches Brew」といった名盤に参加し大きな貢献を果たす。
1970年になるとウェイン・ショーター、ミロスラフ・ビトウスらとともにウェザー・リポートを結成し大きな評判を呼ぶ。最強のエレクトリック・ジャズバンドと謳われたウェザーリポートは、1976年に天才ベーシストジャコ・パストリアスが加わり黄金期を迎えマイルス不在のジャズ界を牽引した。彼はここでも名曲「バードランド」を作曲しポップヒットさせたが、次第にウィントン・マルサリスが提唱する新伝承派といったシーンの時流もあり1986年ついにウェイン・ショーターとの共同プロジェクトであったウェザー・リポートを解散させる事となる。その後はレコード会社との関係悪化やシンセサイザーを使い続けた事による当時の時代とのミスマッチにより、シーンの中央からは遠ざかっていく。
しかしおよそ1995年には兼ねてより積極的に取り入れていたワールドミュージックの要素が実を結び、彼のワーキングバンドである「ザウィヌル・シンジケート」に人気ベーシストリチャード・ボナを見出したこともあり再び大きな話題を呼ぶ事に成功する。現在もメンバーは流動的であるがこのバンドでツアーを続け、日本のブルーノートに来日する機会も多い。
70年代よりシンセサイザーを駆使してきた彼がその発展に貢献したものは大きく、現代のミュージシャンにも多大な影響を与えている。 1996年の一時期には(ウェザー・リポートの再結成)という噂がファンの間で飛び交った。当人はレコード会社からそのような話もあったことを認めつつも、結局実現には至らなかった。 2004年には祖国ウィーンに世界中の音楽を発信する場としてクラブ「ジョー・ザウィヌルズ・バードランド」をオープンさせている。