ジークムント・フロイト
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ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、オーストリアの精神分析学者。生まれた時の名はジギスムント・シュローモ・フロイト(Sigismund Schlomo Freud)だが、21歳の時にSigmundと改めた。オーストリアの東欧系ユダヤ人(アシュケナジム)の家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。彼が心理学者であるか否かは心理学、精神分析をどのように定義するかにより判断が分かれる。少なくとも、彼自身は著作の中で自分を心理学者だと述べている。(例えば、Freud(1914/1999, p. 205)[1]、 Freud(1933/1999, p. 13)[2])。
フロイトの記録した数々の有名な症例報告は、彼の非常に詳細で精密な観察眼を示すものであり、現在においても研究に値するものである。精神力動論は、その後彼の弟子達に伝えられ、様々な学派により改良され、現在でも精神医学のみならず、現代の文化・人間理解に大きな影響を与えている。(ちなみに、彼の考え方を丸々受け継いだ弟子はいない。よって、弟子達は彼の考え方のどこかしらを必ず批判した上で、独自の精神医学の考え方を生み出していった。)その研究は、後の世の精神医学、臨床心理学などの基礎となってきたが、やはり現代ではもはや古典である。「フロイトの理論は、「一般的」なものではなく、かれ自身患っていた症状について詳しく記述しただけで、一事例の事例報告でしかない」という批判も現在ではある。
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[編集] 生涯
1856年、オーストリア帝国・モラヴィアのフライベルク Freiberg(現チェコ・プシーボル Příbor)で毛織物商人ヤーコプ・フロイト(45歳)の息子として生まれる。母親はブロディ出身のアマーリア・ナータンゾーン Amalia Nathansohn(1835–1930)で、ユダヤ法学者レブ・ナータン・ハレーヴィの子孫と伝えられている。同母妹にアンナ、ローザ、ミッチー、アドルフィーネ、パウラがおり、同母弟にアレクサンダーがいる。このほか、父の前妻にも2人の子がいる。モラヴィアの伝説の王Sigismundとユダヤの賢人王ソロモンにちなんで命名された。家族は1859年ウィーンに引っ越す。1866年シュペルル・ギムナジウムに入学。1873年ウィーン大学入学、2年間物理などを学び、医学部のエルンスト・ブリュッケの生理学研究所に入りカエルやウナギなど魚類の神経を研究、その論文は、ウィーン科学協会でブリュッケ教授が発表した。1881年ウィーン大学卒業。1882年、後の妻マルタ・ベルナイスと出逢う。脳の中での神経活動としての心理活動(すなわち「力動」)を解明するという壮大な目的で、自由連想法や精神力動論を考案した。しかし後年、その目的への程遠さにも気づいていた。
自身がユダヤ人であったためか、弟子もそのほとんどがユダヤ人であった。また当時、ユダヤ人は大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんだ。そのため精神分析の誕生の当初は、ユダヤ人の似非科学のような揶揄、非難を浴びせられた。その意味でも、非ユダヤ系でチューリッヒ大学講師でもあった、スイス人の研究者カール・グスタフ・ユングに特別の期待をかけ評価していたが、のち訣別。
フロイト自身の子供たちのなかで、アンナ・フロイトのみが父の仕事を引き継ぎ、児童心理学の世界で活躍し、これが晩年のかれの慰めのひとつになった。
1923年(67歳)、喫煙によるとみられる白板症(ロイコプラキア)を発症、以後死に至るまで口蓋と顎の癌手術を33回も受けている。16年間に及ぶ闘病生活にもかかわらず強靭な精神力か、著述、学会、患者治療に超人的活動を続けた。1938年、ナチス・ドイツに追われてロンドンに亡命。1939年(83歳)、末期ガンに冒されたフロイトはモルヒネによる安楽死を選択し、ロンドンで生涯を終えた。最後の日々を過ごした家は、現在、フロイト博物館になっている。
苗字のFreudはヘブライ名のシムハ(שמחהSimcha; "喜び"を意味する)の独訳に由来するが、英語圏では、初期の精神分析学に対する社会的不信から、しばしばFraud(詐欺師)と揶揄された。
[編集] 一族
孫ルシアン・フロイドは画家。孫クレメント・フロイドは著述家でブロードキャスターで政治家。曾孫エマ・フロイドはジャーナリスト。曾孫ベラ・フロイドはファッションデザイナー。曾孫マシュー・フロイドはメディア王で、ルパート・マードックの娘と結婚した。また甥のエドワード・バーネイズは広告産業の生みの親の一人である。超能力者ユリ・ゲラーの母は旧姓Freudで、やはり親類に当たる。
[編集] 精神分析の創始
[編集] 心理的=性的発達段階
[編集] その評価と業績
フロイトは、マルクス、ニ-チェとならんで20世紀の文化と思想に大きな影響を与えた人物の一人である。しかし、彼の理論に対しては生前から批判が絶えず、彼の業績をどの程度評価するかは未だに議論の対象なっている。 フロイトは明晰な文章を得意とする、散文の名手であり、文学や芸術価値について彼の理論と作品の価値を疑うものはいない。トーマス・マンを初めとする20世紀のほとんどすべての作家は何らかの形でフロイトの影響を受けている。更にシュール・リアリズム運動を率いた作家たちはその美術運動の理論的基礎をフロイトに求めるなど精神分析の登場はは20世紀文化史における一大事件といってもよいだろう。 しかしながらフロイトがもっともこだわった点、彼の精神分析理論の科学性については大いに疑問の余地がある。カール・ポパーは実験やデータなどの反例による理論修復の機会を拒否する精神分析論の独善的な姿勢を強く批判している。また現代の精神医学においては、フロイトの理論自体が高く評価されているとはいえない。しかし、フロイト自身がこの精神の病理という分野に大きなスポットライトを当てた業績は誰にも否定できないものがある。フロイトの時代の医学では精神病理の治療はほとんど進んでおらず、脳内のメカニズムを解明する可能性はほとんど存在しなかった。科学者でありかつ医学者であったフロイトが、精神病理に対する治療のアプローチとして心理的な側面を発見したのは一種の革命に近いものがある。
[編集] 脚注
- ^ Freud S. , (1999). Zur Psychologie des Gymnasiasten In Gesammelte Werke (Vol. 10, pp. 203-207). Frankfurt am Main: Fischer Taschenbuch Verlag. (Original work published in 1914)
- ^ Freud S. , (1999). Warum Krieg? In Gesammelte Werke (Vol. 16, pp. 11-27). Frankfurt am Main: Fischer Taschenbuch Verlag. (Original work published in 1933)
[編集] 関係者
[編集] 関連項目
- 精神医学
- 力動精神医学
- 精神分析
- 脳科学:フロイトが生涯こころに描いていたのは、脳と心の関係を追究することだった。
- 心理学
- 無意識
- 神経症
- 疑似科学:フロイトの理論は反証可能性を欠くため疑似科学であると批判されることがある。
- 自我
- リビドー
- 抑圧 (心理学)
- 抑圧された記憶
[編集] 参考文献
- 鈴木晶 『(図解雑学) フロイトの精神分析』 ISBN 481633646X
- ハンス・アイゼンク 『精神分析に別れを告げよう―フロイト帝国の衰退と没落』 ISBN 4891750855 ISBN 4826502281
- ロルフ・デーゲン 『フロイト先生のウソ』(原題=『Lexikon der Psycho-Irrtuemer』(心理学間違い事典))ISBN 4167651300
[編集] 外部リンク
- フロイトの生涯
- フロイト 無意識への旅
- 収集家としてのフロイト展
- フロイト Freud & 精神分析
- Sigmund Freud and Freud Archives英語サイト
- Freud.org.UK - Freud Museum London フロイトが最後の1年を過ごした家を博物館に転用したもの。英語サイト
- Classics in the History of Psychology - 心理学の重要な論文が心理学史を追って読めるサイト。フロイトのものもある。英語サイト。
- ラカン派精神分析学・日本語文献案内(中野昌宏・大分大学)-フロイトやラカンの文献案内。充実している。