ヴィルヘルム・ライヒ
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ヴィルヘルム・ライヒ(Wilhelm Reich、1897年3月24日 - 1957年11月3日)は、オーストリア・ドイツ・アメリカ合衆国の精神分析家。オルゴン理論の提唱者としても知られている。
オーストリア・ハンガリー帝国領だったガリチア地方のドブジャニツァ(レンベルク近郊、ホロドク西部ドブリャヌィ)出身。妻はルイザ。
13歳のとき母親が家庭教師と寝ているところをライヒが父親に密告し母親が自殺。17歳の時に父親が自殺同然の死に方をする。法学部に入学するが、その後ウィーン大学医学部に入学しなおした。学生時代から精神分析について学び、敬愛するジークムント・フロイトから指導を受け、フロイト派の精神分析家として活動した[1]。
その後、1922年に医学博士の学位を取得する一方で、オーストリア社会党で活動。1930年にはベルリンに移住し、ドイツ共産党に籍を置く。この頃は初期フロイトの路線を強調した上で精神分析に政治的な視点をもたらし、精神分析とマルクス主義を結びつけようと試みた。セックス・ポル(性政治学研究所)を主宰し、プロレタリアートの性的欲求不満が政治的萎縮を引き起こすと主張。社会による性的抑圧からの解放を目指したが、その極端な思想や行動は共産党(殊にコミンテルン)から「非マルクス主義的ゴミ溜め」と批判され除名される[2]。
その後、1933年にナチスに代表されるファシズムを性的抑圧によるノイローゼ患者のサディスティックな表現と分析した『ファシズムの集団心理学』を上梓。これはナチス・ドイツ政権から危険視され、翌1934年にはデンマークを経由してノルウェーに亡命。オスロ大学で性科学を研究し、そこで滅菌した肉汁中に小胞(バイオン)が認められると発表。1939年にはバイオンの研究中にオルゴンを発見するが、ノルウェーでもライヒの学説に対する批判が巻き起こり、渡米してニューヨークに住む。新社会調査学校において準教授の身分で医学心理学の教鞭をとる傍ら、フリースクールの代表であるサマーヒル・スクールを設立したA・S・ニイルに分析を行い、以後投獄期間中も含めて親しく交流を持つ。
1940年にメーン州レーンジュエリーに転居、支援者によりオルゴン研究所「オルゴノン」でロバート・マッカローらとともにオルゴンの研究に取り組んだ[3]。よく知られている物としては、オルゴン・ボックス[4]やオルゴン放射器のクラウド・バスター[5]などを作成していたことがあげられる。
1954年にオルゴン・ボックスの販売が、がん治療機の不法製造販売にあたるとして、FDA(米国食品医薬品局)により裁判を起こされ、裁判所はオルゴン・ボックスの販売禁止とライヒの著作出版の差し止めを命令[6]。ライヒは命令に従わなかったため有罪判決を受け1957年に入獄、11月3日にコネチカット刑務所で心臓発作で死亡した[7]。
ライヒはフリーセックスの風潮が生まれた1960年代に再評価され、日本でも「セクシュアル・レボリューション」が売られ名前を馳せることになる。
[編集] 註
- ^ だが、ライヒ自身はフロイトから嫌われていて、そのため深刻なノイローゼ状態になったこともある
- ^ また、フロイト派とも距離を置くことになり1934年には精神分析協会からも除名された
- ^ 1941年にはアルベルト・アインシュタインにオルゴノスコープ(オルゴン拡大鏡)でオルゴンを見せている
- ^ この呼び名は主にマスコミが使った蔑称(他にもセックス・ボックスなどとも呼ばれた)で、正式にはオルゴン蓄積器(オルゴン・アキュムレータ)と呼ばれている
- ^ 1951年にラジウムとオルゴンの研究中に発生したというオラナーとデッドリーオルゴン(DOR)の雲をなくすために発明したと言われる。1954年にライヒ自身がUFOを目撃した際にはDORを利用した侵略者の宇宙人の宇宙船と直感し、クラウド・バスターでUFOを撃墜する必要性を訴えていた
- ^ この際、オルゴン・エネルギーに関係の無い他の著作まで差止め命令を受けたため、オルゴンの信奉者を中心に言論弾圧という批判が存在する
- ^ ライヒには精神分裂病(統合失調症)の可能性が疑われたため精神鑑定が行われたが、(オルゴンにまつわるいくつかの妄想的な言動を除けば)ほぼ正常だったといわれる