スタニスラフ・ブーニン
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スタニスラフ・スタニスラヴォヴィチ・ブーニン (Станислав Станиславович Бунин, Stanislav Stanislavovich Bunin:1966年9月25日-)はロシアのピアニスト。
日本では最も有名な外国人ピアニストの一人。ピアノコンクールとして非常に権威の高い、ショパン国際ピアノコンクール(開催地:ワルシャワ)で第11回大会(1985年10月1日~21日)に弱冠19歳で圧倒的な優勝をした。これをNHKが特集番組を放送したことを端に、当時「ブーニン・フィーバー」が巻き起こり、これによって日本のクラシックファンの裾野を広げた。専門家の間では演奏解釈はどちらかというと異端的と評され、ピアノ界で主流派とはみなされなかったが、これまでにない非常にメリハリのある演奏はクラシック音楽に疎遠な人々に歓迎された。「ブーニン・フィーバー」を期にブーニン自身は日本を非常に好意的に思うようになり、頻繁に来日演奏会を催している。
目次 |
[編集] 経歴
1966年、ソ連時代のモスクワ生まれ。父は当時の名ピアニストスタニスラフ・ネイガウス、祖父はモスクワ音楽院の名教授でギレリス、リヒテルの師でもあるゲンリフ・ネイガウスである。母もまたピアニストでモスクワ音楽院出身で同教師でもある。4歳から母にピアノの手ほどきを受け、その後も英才教育をうける。そして、17歳にしてロン=ティボー国際コンクール(開催地:パリ)で最年少優勝を果たす。翌年1984年よりショパン研究家のセルゲイ・ドレンスキーに師事した。19歳でショパン国際ピアノコンクールに優勝したときは「協奏曲賞」と「ポロネーズ賞」も同時受賞している。1988年6月に西ドイツ(当時)に亡命した。ヨーロッパ各地での活動に駆け回る。89年に東芝EMIと契約し、その最初のリリースCD「バッハリサイタル」が90年の日本ゴールドディスク大賞を受賞した。最も得意分野のショパンは勿論、ベートーヴェンのピアノソナタ、シューマン、J. S. バッハ、モーツァルトとレパートリーを広げている。その輝かしい経歴から若手ピアニストと言ってはふさわしくないほど早熟で、デビューからこれまでの演奏解釈の変化も注目に値する。
[編集] 個性
外見上スラッとした容姿は魅力的で、ソフトな印象と演奏中の横に振る体の動きがファッション的で、かなりの女性ファンが多い。しかし演奏の方はどちらかと言うとドラマチックに設定をし、説得力のある演奏を追い求めた。その結果テンポなどが遅めになりすぎたり、またスフォルツァンド等が鈍くなったりとテクニックの面では端正だが、個性に欠けるとして一方のほうでは批判の声もあった。彼の有名な演奏ではショパンの24のエチュ-ド等が評価が高い。
[編集] ブーニンと日本における電子ピアノの普及
ブーニンの功罪として、電子ピアノの日本における普及とピアノ産業の衰退が上げられる。彼が日本に紹介されたころ日本で電子ピアノが普及し始めた。これに対しピアノ産業は電子ピアノでは絶対音感を養うことは出来ないとのキャンペーンを張ろうとしたが、当時日本で絶大な人気を誇ったブーニンが電子ピアノで練習しているとの報道が効果的に紹介され、これによってそれらのキャンペーンの正当性が失われ、一挙に電子ピアノの普及が進んだ。これによって結果的にピアノ産業の衰退を招くことになった。
[編集] 外部リンク
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