セレウコス1世
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セレウコス1世(ギリシア語:Σέλευκος Νικάτωρ ローマ字転写:Seleukos I、紀元前358年-紀元前281年)はセレウコス朝の創始者(在位:紀元前312年-紀元前281年)。ニカトール(勝利王)と呼ばれた。
[編集] 武将としての時代
マケドニア王国の貴族で、アレクサンドロス大王の家臣として仕え、大王の東方遠征にも参加して活躍する。しかし他のディアドコイたちに比べれば当時は影が薄い存在で、アレクサンドロスの生涯に関する史料として最も重要視されるアッリアノスの『アレクサンドロス大王東征記』でも、セレウコスが最初に登場するのは、紀元前326年のヒュダスペス河畔の戦いの場面である。当時彼はヘタイロイの一員で、王の近衛歩兵部隊の指揮官であった。
紀元前324年にスーサで行なわれたギリシア人と東方人の集団結婚式では、アレクサンドロスに敗れたソグディアナの実力者スピタメネスの娘アパメーを娶る。このとき王に強いられて東方人の妻を迎えた者たちのほとんどは、やがて相手を離別したが、セレウコスだけは生涯アパメーと連れ添った。ソグディアナ人のアパメーを妻としたことは、後に彼の東方支配に大いに利したとされる。
アッリアノスによれば、アレクサンドロスがバビロンに帰還してから、彼の死の予兆となる不吉な事件が次々に起こったというが、そのなかのひとつにセレウコスが登場する。それによればアレクサンドロスが船団を率いてバビロン南方の沼沢地を進んでいたときに、彼のかぶっていた帽子とディアデマが風にさらわれて沼の芦に引っかかった。同時代人アリストブロスの記録では一人の水夫がこのディアデマを王のもとに届けたとされるが、別伝によるとディアデマを王に手渡したのはセレウコスであり、彼が王の権威の象徴を手にしたことは、のちに彼が王位を獲得する前兆であったという。
その後アレクサンドロスの死の直前に王の治癒祈願のためセラピス神殿に参篭した者たちのなかにもセレウコスの名が見える。
アレクサンドロス3世の存命中にセレウコスの行動として記録されているものはこの程度である。
[編集] ディアドコイ戦争
紀元前323年に大王が若くして世を去ると、セレウコスは当初、帝国摂政を称したペルディッカスに従うが、紀元前321年に将軍ピトンとともに彼をエジプトで暗殺する。これを受けて大王の重臣のひとりであったアンティゴノスが急遽諸将をシリアに召集し、事態収拾と総督領の再分配のためにトリパラディソスの軍会を開催する。セレウコスはここでバビロニアの総督位を獲得し、名実ともにディアドコイとしての地歩を確立した。
しかし早くも同年のうちにエウメネスとアンティゴノスのあいだで大王の遺領をめぐる争いが再開される。セレウコスはおおむねアンティゴノスの側に組して戦いつつ、自らの勢力を拡大していくことになる。
紀元前316年、イラン南部におけるパラエタケネの戦い、およびガビエネの戦いでアンティゴノスはついにエウメネスを敗死させる。しかしセレウコスは事後の領土再配分をめぐってアンティゴノスと決裂し、エジプトへ奔ってプトレマイオスと結んだ。両者は紀元前312年の春にガザの戦いでアンティゴノスの子デメトリオスを破り、同年10月1日にセレウコスはバビロンを回復する。一般にこれをもってセレウコス朝の開始とするが、彼が正式に王を称したのは紀元前305年のことであるとも言われている。
その後セレウコスはアンティゴノス派の有力者であったニカノルをティグリス河畔で破ってバビロニアの支配を確立し、紀元前305年には、一時ディアドコイ戦争が膠着化したのを機として中央アジア・インド方面に兵を進める。これは当時混沌たる状況にあった帝国の東部を安定させるとともに、高地アジアへの再征によって大王の後継者としての自らの権威を高める目的もあったのであろう。
しかしセレウコスはインダス流域で、その頃インドで成立したばかりのマウリヤ朝の初代王、チャンドラグプタが率いる圧倒的な大軍と遭遇する。このとき両者のあいだに軍事衝突があったかどうかは定かでない。いずれにせよここで彼はチャンドラグプタと協定を結び、ガンダーラやゲドロシアなど東部辺境地域を割譲し、娘をマウリヤ朝の後宮に入れるのを条件に500頭の戦象を獲得した。これは地中海世界に戦象が本格的に姿を現すきっかけとなるとともに、後のイプソスの戦いで彼の勝利に大きな貢献をするものでもあった。
西方に戻ったセレウコスはリュシマコスと結び、紀元前301年の春に中部アナトリアのイプソスでアンティゴノスとデメトリオスを撃破する。チャンドラグプタに譲り受けた戦象の活躍もあって彼は圧倒的な勝利をおさめ、アンティゴノスは戦死。ここにセレウコスはアジアにおける唯一の覇権を確立する。
[編集] セレウコス朝の確立
イプソスの戦いの結果、セレウコスはシリア北部とアナトリアの中部を獲得した。新しい王国の首都とすべく、翌年の5月22日にシリアのオロンテス河畔で新たな都市の建設がはじまった。これがアンティオキアであり、セレウコスの父アンティオコスの名にちなむものである。彼はその他にも母の名を冠したラオディケイア、妻の名を取ったアパメイアなど多くの都市を建設した。とくにティグリス河畔に築かれたセレウキアは王国の第二の都としてかつてのバビロンにかわって繁栄を極めることになる。
またシリア、セリキアなどに及ぶ広大な支配圏を72の行政区に再編し、領域内における通貨の統一を進め、長子アンティオコスにマケドニア王デメトリオスの娘で一時自分の寵妃であったストラトニケを与えて副王に任じ、王国東部の支配を委ねた。彼はやがてヨーロッパにも版図を拡大し、黒海とアゾフ海、カスピ海を大運河で結ぶ構想を抱いていたともいう。
紀元前281年、クルペティオンの戦いでリュシマコスを破り、さらにデメトリオスの死を受けて故国マケドニアに勢力を拡大しようと遠征を開始するが、途上ヘレスポントス海峡の対岸リュシマキアの陣営で、同行したプトレマイオスの子ケラウノスによって暗殺されてしまった。彼の遺骸はシリアのセレウキアに運ばれ、この地の墓廟ニカトレイオンに葬られる。
王の時代、王朝はまさに全盛期だったが、その後は徐々に衰退してゆくこととなる。