副王
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副王(ふくおう)は君主の代理人として、君主の名を以て植民地や属州を統治する官職名である。「viceroy(英)」の語はラテン語接頭辞 vice- (代理の意)とフランス語で王を意味する roi から来ている。副王の領土は「副王領」(viceroyalty)と呼ばれる。女性の場合は「副女王」(ヴァイスレイン vicereine)と呼ばれ、まれにではあるが軍事指揮権をも保有する場合があった。また、副王夫人に対してもヴァイスレインの呼称が用いられた。副王の子息(令嬢)は"Viceigel"と呼ばれた。
「副王」の称号はたんなる総督よりも上位の官職であることを想起させる。実際の所は、官職の階級としては総督と同程度であることもあったし、属州や植民地の知事(副知事)の上官ではないこともあった。
副王の職が終身職でない場合、王族の一員に名誉的に与えられる場合もあった。王位継承の可能性があるものにとって、副王(あるいはそれと同等の地位)の座が与えられることは珍しいことではなかった。副王の地位に就くことで継承者としての資質を試す意味もあったので、古代ローマの「コンソルティウム・インペリ」(帝権を二人以上の皇帝で分けるという概念)や、ディオクレティアヌス帝が行ったテトラルキアに見られるような「副帝」といった地位ほど高尚なものではなかった。
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[編集] スペインの統治
“日の沈まぬ帝国” スペインの絶対王制下では、欧州における領土や海外植民地を統治するために、多数の副王が任命された。欧州では18世紀まで、アラゴン、バレンシア、カタルーニャ、サルデーニャ、シチリア、ナポリおよびポルトガル (1580-1640間)の副王は、スペイン王によって任命されていた。
同時期の新世界(アメリカ大陸)では中米のニュー・スペイン(ヌエバ・エスパーニャ)と南米のスペイン領(副王領:スペイン語で"virreinato")に副王がいた。1717年の時点で新世界にはペルーとニュー・スペインの2人の副王がおり、ペルー副王はリマに首都を構え、南米のスペイン領全域を支配した。一方のニュー・スペイン副王はメキシコシティを首都とし、メキシコ、及び中米、北米、カリブ海とフィリピン諸島のスペイン領を統治した。南米のベネズエラがニュー・スペイン副王の統治下に入るときもあった。
新大陸でのスペイン植民地の拡大に従い、1717年には新たにヌエバグラナダ(首都ボゴタ)、1776年にはリオ・デ・ラプラタ(首都ブエノスアイレス)に副王が置かれた。アメリカのスペイン領を治める副王の権限はより小さな単位──アウディエンシア(Audiencia 行政立法院)や総督府 (Captaincy General)──に細分化されていった。それらは現在のスペイン系の南米独立諸国につながっていく。
- ニュー・スペイン副王府 - メキシコのメキシコシティ
- ペルー副王府 - ペルーのリマ
- リオ・デ・ラプラタ副王府 - ブエノスアイレス
- ヌエバグラナダ副王府 - ボゴタ
[編集] 大英帝国と英連邦
1858年(この年、英王室は東インド会社が1774年10月20日から持っていた総督任命権を継承し、総督は王室の管理下に入ることになった)から1947年まで、「ハイ・ラジャ」(インド帝国最高主権者の意)である英国インド植民地総督も、公式名称ではなかったものの「インド副王」として知られている。(最後の副王はそれ以前と異なり王室出身で、ルイス・フランシス・マウントバッテン伯〈任期1947年2月21日 - 8月15日〉であった)
また、アイルランド総督も副王の名称を用いることがあった。
副王の称号およびそこから派生した「副王の」を意味する形容詞 "vice-regal" は、大英帝国(英連邦)の総督、もしくはそれ相応の権限を持つもの(カナダ州副知事 "provincial Lieutenant-governor" 、オーストラリア総督 "state Governors" など)に対して、王室の代表であるという意味を含んで使用されることがある(英国領インドを大英帝国や英連邦に含むことは不正確であり手続き上は誤っている)。
[編集] その他の副王制
- ニューフランス(現在のカナダ)では総督だけが置かれた(1534年7月24日 - 1541年1月15日、ジャック・カルチェ)が、その後、副総督と副王(1541年1月15日 - 1543年9月、ロベールヴァル卿ジャン・フランソワ・ド・ラ・ロケ〈1500 - 1560〉)が置かれ、1543年9月から1578年1月までは廃止されていたが、1578年1月3日から1606年2月まではトローイロス・ド・メスケズ(ローシュ・メスケズ侯爵、1598年1月12日より副総督)が就任した。1606年2月から1614年まではジャン・ド・ビヤンクール(プートリンクール卿、サン・ジュスト男爵〈1557 - 1615〉が、就任し、つぎに1611年10月8日から1672年までフランス本国駐在の副王が置かれ、その後、知事と総督が置かれた。
- イタリア語の「Viceré」はイタリア領東アフリカの6州連合(エチオピア、エリトリア、伊領ソマリランドを含む)で最高位の植民地高官を意味した。ファシスト党が一時的にエチオピアを占領した1936年5月5日から、最後のイタリア人行政官が連合国に降伏した1941年11月27日まで「高等弁務官」ではなく「副王及び総督」と称された。イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は「エチオピア皇帝(ネグサ・ナガスト Nəgusä nägäst, 王の中の王を意味する)」の称号を要求し、その後継者であることを宣言した。(→イタリア領東アフリカ帝国) その間、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは亡命しながらも帝位を保持し続け、1941年5月5日に玉座に返り咲くことになる。
- ポルトガル語の「Vice-Rei」
- ゴアに本拠を置くポルトガル領インドは、フランシスコ・デ・アルメイダ(Viceroy Francisco de Almeida、1450年 - 1510年)が1505年から1509年にかけて副王となることで設立された。以後は総督や統治委員会が置かれたが、まれに副王が置かれることもあった。
- ブラジルでは1714年7月13日から1815年12月16日まで副王が置かれていた。1808年以後はブラガンサ王朝はナポレオンによるポルトガル侵略から逃れブラジルに移転した。1822年9月7日、摂政としてブラジルに残っていたドン・ペドロはブラジル王国の分離独立を宣言、10月12日に自らを皇帝と称するようになった。
[編集] その他、自国領内の副王(同君連合を含む)
- コルシカでは1406年から1420年ごろまで、伯爵ヴィンチェンテッロ・ディストリア(Vincentello d'Istria)が名目上アラゴン王国から任ぜられた副王となっていた。
- フランス皇帝ナポレオン1世は、その継子のウジェーヌ・ド・ボアルネをイタリア王国(フランスと同君連合)の副王(Viceroi d'Italie)に任じ、後にはヴェネツィア公、すなわち同国の王太子とした。しかし一方で、フランス帝国の玉座からは締め出され、それはハプスブルク家出身の皇后との間にもうけた息子のために残された。
- ノルウェー副王はデンマーク王の下にあり、王位継承者が副王を継いでいた例の一つである。
- スペイン・ナポリ副王の一覧
- ロシアのロマノフ家統治下:
- ポーランドは、国王をロシア皇帝が兼ねる同君連合(1918年7月20日-1916年11月5日)でり、唯一人、副王がいた。
- (在任:1815年12月9日 - 1830年12月1日)コンスタンチン・パヴロヴィチ・ロマノフ大公(1779-1831)
- カフカース(アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア)は当初、1802年から1844年までトビリシの総督が治め、1844年以後、カフカース副王(Кавказского Наместника)が設けられた。
- (在任:1845年 - 1853年) ミハイル・セミョーノヴイチ・ヴォロンツォフ公爵(1782-1856)
- (在任:1853年 - 1854年) Nikolay Andreyevich Read (代理)(1792-1855)
- (在任:1854年 - 1856年) ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ(1794-1866)
- (在任:1856年 - 1862年) アレクサンドル・イヴァノヴィチ・バリャチンスキー公爵(1814-1879)
- (在任:1862年 - 1881年) ミハイル・ニコライェヴィチ・ロマノフ大公(1832-1909); next a series of Chief Heads of the Civil Administration of the Caucasus, including several imperial princes, 1882 - 1905, then again Viceroys:
- (在任:1905年 - 1915年) Illaryon Ivanovich, Vorontsov-Dashkov 伯爵(1837-1916)
- (在任:1915年 - 1917年2月) ニコライ・ニコライェヴィチ・ロマノフ大公 (1837-1929)
- ポーランドは、国王をロシア皇帝が兼ねる同君連合(1918年7月20日-1916年11月5日)でり、唯一人、副王がいた。
[編集] フィクションにおける副王
- ヌート・ガンレイ - 映画『スター・ウォーズ』シリーズ、通商連合副王(「総督」の邦訳が一般的)
- ベイル・オーガナ - 映画『スター・ウォーズ』シリーズ、惑星オルデラン副王(「総督」の邦訳が一般的)
- レムス人副王(副長官と邦訳) - 映画ネメシス/S.T.X、総督シンゾン配下の異星人
[編集] 諸外国における副王に類する地位
非西欧圏で諸侯や地方官の称号として用いられているもので、公式なものではないが副王と同類、またはそれに準ずる地位、官職が副王と翻訳されることがある。
[編集] オスマン帝国
- ムハンマド・アリー朝時代のエジプトにおいて、1867年から1914年まで使用された「ヘディーヴ」の称号。
19世紀前半のエジプトに成立したムハンマド・アリー朝は、オスマン帝国の宗主権を名目的に認めながらも実質的には半独立の状態にあった。創始者ムハンマド・アリー(在任1805年 - 1848年)はオスマン帝国とは異なる紋章を用い、独立した王朝であることを内外に示したが、名目上はあくまでもエジプト州の総督(ワーリー)という立場であったため、当初ムハンマド・アリー朝の当主は、オスマン帝国の他の州の総督と同様に州総督クラスの文武の高官が名乗る称号である「パシャ」を名乗った。1867年、ムハンマド・アリーの孫であるイスマーイール・パシャの代に、エジプト総督が独自の称号「ヘディーヴ」を名乗ることがオスマン帝国政府から認められ、この称号は第一次世界大戦の勃発によってエジプトがオスマン帝国の宗主権下から離脱する1914年まで用いられた。この、ペルシア語で「支配者」を意味する称号であるヘディーヴが「副王」と訳されている。
[編集] 中国
中華帝国では強力な地方行政権を持つ総督 "general supervisor-protector" が副王と翻訳されることがある。かれらは2つ、3つほどの「州」を統治し、その領域は直隷、湖広、両江、両江、陝甘、閩浙、雲貴、四川に分けられた。李鴻章は1867年から1870年まで両広総督を務め、袁世凱は直隷総督であった時期がある。
[編集] スリランカと東南アジア
- ウパラージャ インドシナ半島における仏教王国での副王の称号。「マハー・ウパラージャ」のように複合的に用いられる。
[編集] 公的でない使用例
- イラクへの主権返還に先立ち、イラク再建を担当した米国文官ポール・ブレマーは時折メディアに「イラク副王」と呼ばれていた。こういった使われかたは概ね軽蔑的で、イラク戦争を批判する論調で用いられた。米国の連邦憲法では高位高官に貴族めいた肩書きを用いることを禁止しているため、実際の所、海外に駐在する米国高官は昔でいえば副王と考えられなくもない。
- 会員制自動車クラブに"viceroy"を名乗っているものがある。贅沢な生活と常に完全の域に達した自動車を追求している。[1]