タイテエム
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1969年4月14日 |
死没 | 1993年10月23日 |
父 | セントクレスピン |
母 | テーシルダ |
生産 | 出口留雄 |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
馬主 | (有)名鯛興業 |
調教師 | 橋田俊三(栗東) |
競走成績 | 16戦8勝 |
獲得賞金 | 1億2651万2700円 |
タイテエムは競走馬である。1972年『最強世代』の最強クラスの1頭。当時は「四白流星の貴公子」と呼ばれ、四白流星の派手な馬体は好調時には紫色に輝くともいわれた。セントクレスピン産駒の持込馬である。主戦は須貝四郎(引退後競馬評論家・故人)と須貝彦三(現・調教師)。
- 馬齢については原則旧表記(数え)とする。
目次 |
[編集] デビューまで
タイテエムは好馬体であったものの、高値(当時で1500万円)であったことと、四白流星の顔を気にする調教師が多く、なかなか買い手がつかなかった。調教師界の大御所・武田文吾も見に来たが、やはり四白流星の顔が気に入らず購入しなかった。しかし、武田と入れ替わりに出口の元にやってきた橋田があっさり購入。武田は、タイテエムを購入しなかったことに関してはあまり後悔はしていなかったらしいが、後にタイテエムが菊花賞に出走した際、一言「あの馬に勝たれると気色悪い」と漏らしている。
[編集] 戦績
1971年10月17日に楠孝志(現・調教助手)を鞍上にデビューを果たしたタイテエムであったが、1番人気を裏切る8着と惨敗。この年は、腰がしっかりしていなかったこともあり、新馬勝ち以外は勝利を挙げれず3戦1勝に終わる。橋田は腰の治療のため鍼治療を施すことにして、しばらく休養させることにした。翌年(1972年)4歳になると、腰もよくなり良血を開花させることとなる。楠に代わって須貝四郎が主戦騎手となった。休養明けの3月のさわらび賞と山吹賞を連勝した。例年なら、この時期に勝利を積み重ねてもクラシック参戦には微妙という時期であったが、1972年は前年年末から同年春まで関東馬にインフルエンザが流行し、春のクラシックレースのスケジュールが大幅に遅れていたため、タイテエムも有力候補の一角として東上することになった。そして、東上初戦のスプリングステークスでは、タイテエムと同じ新馬戦でデビューし、阪神3歳ステークスを制して牡馬3歳チャンピオンになり、主戦の福永洋一に「この馬が一番強い」と言わしめていたヒデハヤテを破ったため、一躍クラシック有力候補となった。しかし、タイテエムは肝心の春のクラシックには縁が無かった。皐月賞は、無敗で駒を進めていた「重戦車」ロングエースとの一騎打ちと見られていたが、勝ったのは同じ関西馬ながらヒデハヤテ、ロングエース相手に負けていた「野武士」ランドプリンスであった。続く7月7日の東京優駿(日本ダービー)はタイテエム・ロングエース・ランドプリンスの関西三強と遅れて台頭した関東のイシノヒカルとの争いと見られていたが、タイテエムは最後の直線での叩き合いに敗れ、ロングエースの3着と後塵を排した。
秋になると、タイテエムは神戸新聞杯でランドプリンスを、京都新聞杯でロングエースを撃破しを連勝。いよいよ菊花賞は無冠のタイテエムが戴冠する番と思われた。しかし、最後の直線でイシノヒカルの豪脚に屈し、結局クラシックの戴冠はならなかった。
翌1973年は初戦の金杯(西)こそユーモンドの4着に敗れた。レース後、腰を気にするそぶりがあったためしばらく休養し、間隔をあけて出走したマイラーズカップでは5番人気の低評価ながら不良馬場を克服して優勝。このマイラーズカップから病気で休養した四郎に代わり、兄・須貝彦三が主戦を務める。そして、天皇賞(春)に臨んだ。レース開始直前から豪雨となり、レース自体もスガノホマレが骨折で競走を中止する乱戦となり、タイテエムも一時は後ろから2番目にまで後退してしまった。しかし、タイテエムは3コーナー過ぎから馬場の外側をマクリ気味に追い上げ、良馬場発表ではあったが3分25秒0にも達した同レースを、白頭巾を真っ黒にしながら優勝した。2着は関東馬カツタイコウ。このレースを実況した関西テレビの杉本清は、『無冠の貴公子に春が訪れます』とタイテエムの優勝を称えた。しかし、次走宝塚記念ではハマノパレードの逃げを捕まえ切れずよもやの2着。しかも、レース直後に鐙が切れ、須貝は振り飛ばされ放馬。タイテエムはその際に転倒し、アキレス腱に致命的な故障を発症した。橋田はあくまで有馬記念を目指して懸命に治療したものの回復せず、10月14日に引退を発表した。
[編集] 引退後
引退後は種牡馬として供用され、活躍馬には1986年のクラシックでラグビーボールと並ぶ「関西の秘密兵器」と称され、後に京都記念を制したシンチェスト、1987年の牝馬クラシックで活躍したコーセイ(4歳牝馬特別・中山記念・桜花賞2着)などを輩出。残念ながら、今で言う所のGI馬輩出には至らなかった(同期のロングエースは宝塚記念馬・テルテンリュウを輩出)。1992年に種牡馬生活から足を洗ったタイテエムは、馬主が用意したメイタイ牧場で隠居生活を始めた。だが、これまでの反動からか急激に老化が進んだタイテエムは満足に歩けない程に衰弱していく。結局、タイテエムは1993年10月23日にこの世を去った。死因は老衰であった。
[編集] 杉本清の実況スタイルを変えたタイテエム
先にも記したように、タイテエムの優勝した天皇賞(春)に於いて杉本は、『無冠の貴公子に春が訪れます』とタイテエムを称える名実況をしているが、実はその裏で大変肝を冷やす体験をしている。
当時の杉本は、他の競馬実況アナウンサーと同様に双眼鏡で馬群を追いながら実況していた。天皇賞(春)でも、特にタイテエムに重きを置いて実況していた。ところが、実況中にタイテエムの居場所が分からなくなってしまったのである。レース映像を見ると、タイテエムは3コーナーから4コーナーにかけては馬群の一番外側を回っているが、泥んこ馬場のため各馬は泥でメンコも勝負服も真っ黒になり(これはタイテエムも同様)、実況席から双眼鏡で見分けるには少々遠くて難しく、見失ってもやむなしな条件だった。杉本はここで「タイテエムもこの集団の中か」と、微妙な言い回しの実況をしているが、その瞬間、テレビの画面には馬群の外側をマクってきたタイテエム(ゼッケン番号5番)が大写しになっていたのである。直線に入ると一旦は「タイテエム来た」と言ったものの、そのすぐ後ではまるで確信がないように「一番外を通ってタイテエムか、タイテエムか」と実況している。杉本は残り100メートルぐらいになったあたりで、先頭がタイテエムであるとようやく確信したかのように(実際、その直前でもまだ「タイテエムか」と言っている)、「四白流星、タイテエム、タイテエムだ!タイテエム先頭だ!タイテエム先頭、タイテエム、無冠の貴公子に春が訪れます。タイテエム1着!タイテエム1着!」と実況した。
杉本自身は、この時点ではタイテエムを一時見失ったという自覚はなかったらしいが、意外なところからそれを指摘された。レース翌日、通勤途中で見知らぬ(そして天皇賞の中継を見ていたであろう)競馬ファンと思しき人間に、「タイテエムを見失ったでしょう?」といきなり聞かれたのである。杉本はその場はとりあえず取り繕ったものの、関西テレビに出社してレース映像を改めて確認。大写しになっているタイテエムを見て、ようやく自分が実況中にタイテエムを見失っていたことに気付いたのであった。
以降、杉本の実況スタイルは、従来の双眼鏡重視の実況スタイルからモニター重視の実況スタイルに移っていくこととなる。
[編集] 関連事項
[編集] 参考文献
- 横尾一彦「サラブレッドヒーロー列伝14・四白流星の貴公子 タイテエム」『優駿 1987年4月号』日本中央競馬会、1987年
- 杉本清『あなたのそして私の夢が走っています』、双葉社、ISBN 4575711039
- 杉本清『三冠へ向かって視界よし』、日本文芸社、ISBN 4537065427