杉本清
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杉本清(すぎもと きよし、1937年2月19日 - )は元関西テレビアナウンサーで、現在はアライバルに所属するフリーアナウンサー、タレント、競馬ライター。関西放送記者クラブ会友。奈良県大和高田市出身。血液型はB型。「関西競馬実況中継の神さま」と謳われ、数々の名台詞で知られる。
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[編集] 経歴
奈良県立高田高等学校、関西学院大学法学部卒。大学在学中の1960年に知人のツテを頼って関西テレビにアルバイトとして入社。最初は大道具担当、ついで編成担当だったが、翌1961年、先輩の松本暢章(故人)に勧められアナウンサー試験を受験し合格。同年の冬に研修で松本に連れられて行った阪神競馬場で馬券を的中させ、競馬の魅力にとりつかれる。
翌1962年の桜花賞中継でパドック担当のアナウンサーとなり、同年6月の競馬ダイジェスト番組で出張中の松本に代わって毎日杯の実況を担当。まずまずの出来だった事もあり、以降はパドック担当に加え、土曜日のダイジェストの実況を担当する事になり、ついでゲートリポート担当も兼ねる様になった。1969年、競馬中継がカラー放送化される事に伴い、メイン実況担当の座を正式に松本から譲られた(これ以前にも現在のGII・GIII相当の重賞を実況したことはあり、1966年4月17日京都競馬場でのスワンステークスが、確認できる内では最古の杉本の実況である)。
正式に譲られて最初の実況は桜花賞だった。実況の中で通過時計を入れたのは杉本が最初とされている。実は、シンザン主戦騎手の栗田勝から『1600mのレースで、最初の800mを47秒で通過すれば前の馬は崩れるよ』と聞いており、この桜花賞がそのペースで展開していたため、『「最初の800mは47秒台、後ろの馬が届く展開となりました」と思わず言ってしまった。しかし最後の200mまで先頭を走る馬が粘っていたので、最後までヒヤヒヤして実況していた。』という話がある(因みに、レースは待機策を採ったヒデコトブキが1番人気・トウメイを差し切って優勝している)。初期の実況、特に長距離レースの実況ではペースがうまく掴めず、最後の直線で声が一杯一杯になってしまう場面も多かった(代表例:エリモジョージが逃げ切り勝ちを収めた1976年天皇賞・春)。1973年の天皇賞・春では、双眼鏡で本命馬タイテエムを探すうちに見失ってしまいあやふやな実況を余儀なくされたにも関わらず、モニター画面ではタイテエムをしっかり映していた事や、レースの数日後にその事を視聴者に指摘されたの切っ掛けに、双眼鏡を介した実況からモニター画面を重視した実況に変わっていった。天皇賞の2週間程度前に行われた桜花賞でも2番人気・キシュウローレルをクインマハールと間違えて実況してしまった。ほんの少しの間であったのと、タイテエムと違い、レースに勝利したのが間違えた馬達と関係無い1番人気・ニットウチドリの為か、天皇賞の様な指摘は見当たらなかった。実況では名調子が定評もあり1973年の菊花賞の実況では3角にさしかかった2番手ハイセイコーを『ゆっくりと、ゆっくりと降らなければなりません』と放送し、多くの人に好印象を与えた。ハイセイコーには特に思い入れがあった様で、1974年秋の京都大賞典では『ミスターサラブレッド・ハイセイコー、これが関西最後の雄姿です』は引退を年末に控えているとは言うものの、現役馬を表現するのには異彩を放った放送といえよう。これは概ね好評を博した。
テンポイントとの繋がりは各方面でたくさん触れられているので、ここでは多くは触れないが、1975年の阪神3歳ステークスの実況の評判を聞きつけたポリドールレコードの人間(「さらばハイセイコー」のレコードも担当)が、杉本に「歌を歌ってくれ」と依頼。杉本は一応は歌ってレコーディングもしたものの、出来の酷さに結局は没となった。このレコードが世に出た頃、テンポイントが初めて関東のレース(東京4歳ステークス=トキノミノル記念。現在の共同通信杯)に出走する事になり、ポリドール関係者は東京競馬場のパドックにテンポイント応援の横断幕を張った。これが、現在では各地で一般に見られるパドック掲示の横断幕の始まりと言われている。
レコード関連では、1980年に「杉本清・競馬名勝負大一番! - 1980年度中央競馬8大レースのすべて」という企画レコードもある。東京優駿(日本ダービー)を実況したのは、このレコードの為の実況と1997年(グレードAの競馬コーナー用に収録。優勝サニーブライアン)の2回だけである。又、テンポイント・トウショウボーイ・グリーングラス(俗に「TTG」と称す)が揃ったレースではこの3頭が上位を独占したが、杉本がTTG揃い踏みのレースを実況したのは、厳密に言えば1976年の菊花賞だけである(揃い踏みのレースは3度あったが、他の2回のうち1977年の宝塚記念は他のアナウンサーが実況しており、後述の名実況で名高い有馬記念は、本来は日経新春杯のアクシデントで実現せずに終わったテンポイントの海外遠征ドキュメンタリー番組での収録が予定されていた実況である)。
「杉本節」、「実況詩人」と呼ばれた杉本ではあったが、松本とは違い三冠馬の実況(松本は1964年シンザンの三冠達成を実況)をする機会にはなかなか恵まれなかった。1970年の二冠馬タニノムーティエは喉鳴りで完敗、1971年の二冠馬ヒカルイマイと1975年の二冠馬カブラヤオーは故障で出走叶わなかった。周囲から「杉本は三冠馬の実況をした事が無い」と言われ始めたその矢先、1983年ミスターシービー、1984年シンボリルドルフと2年連続で三冠馬が出現、1年置いた1986年にはメジロラモーヌ、その8年後の1994年にはナリタブライアンと、計4頭の三冠達成の瞬間の実況をする栄誉を担った。
1990年に「専門職」と呼ばれる半ばフリーな立場となり(『優駿』での杉本の説明によれば、この「専門職」とは「好きな事をやっていいと言う事だったんですよ。こう言う対談に出るにしても、会社を通さなくて良いから、自分で判断してやる」立場との事(参考文献参照)。関西テレビ内では、杉本の後輩・桑原征平もフリーになる直前の肩書は「専門職」だった)、1992年からは年末恒例の「さんま・清の夢競馬」がスタート、1995年からは「ハンマープライス」のオークショニアとして出演し、とんねるずと親交を持つようになる。とんねるずとはスポーツ番組「グレードA」でも一緒に担当している。また、1995年ごろ「さんまのナンでもダービー」(テレビ朝日制作)では局の垣根を越えて出演し、実況を担当した(在阪テレビ局アナが系列外の在京テレビ局のテレビ番組に出演するのも今まで無く、杉本氏が初めてである)。一方では、ライスシャワーが予後不良となった宝塚記念での実況について苦情の手紙を寄せた視聴者に、生涯初めて実況に関する謝りの手紙を出している。1996年には、大往生を遂げたシンザンの追悼イベントの司会も勤めた。
1997年2月19日の定年退職前、とんねるずの誘いで彼らがいるアライバルへの所属が決定。定年退職の当日は「ハンマープライス」の企画で、「杉本清引退記念パレード」と銘打って大阪市内をオープンカーでパレードを行った。以降は日本テレビ「スポーツうるぐす」の競馬キャスター、関西テレビ「ドリーム競馬」のターフコメンテイターを担当。また、数々の競馬イベントの司会も担当し、さらにはCMのナレーションでも多く起用されている。実況そのものは、定年退職直後は宝塚記念・天皇賞(春)・菊花賞とその関連のレースに絞り、徐々に担当レースを後輩アナウンサーの馬場鉄志に譲り(それ以前から、杉本の不在時の実況や牝馬戦線を担当していた)、2004年の宝塚記念で一応のピリオドを打っている。
また、フジテレビ系列の真夏の一大イベント「FNSの日」の盛り上げにも一役、買っている。1993年の『第1回平成GIダービー』が同日・初登場且つ初実況。それ以降、1994年の『第2回平成GIダービー 北野大障害』を前年に引き続く2年連続実況を担当。それから11年後の2005年にはFNSあっついテレビ局決定戦の決勝トーナメント・初戦として行われた準々決勝のサラリーマンドッジボールと準決勝&決勝戦の社長アームレスリング、全7試合の実況を担当した。
なお、競馬中継の他にも関西テレビ制作の三菱ギャラントーナメント(現・三菱ダイヤモンドカップゴルフ)の実況を1996年まで務めていた。
天覧競馬となった2005年10月30日の第132回天皇賞(秋)のレース前、競馬関係者の一人として今上天皇から言葉をかけられた。
[編集] GI実況歴
[編集] 関西
- 桜花賞:1969年~1987年、1989年~1991年
- 天皇賞・春:1969年~1990年、1992年~2000年
- 宝塚記念:1969年~1976年、1978年、1981年~1985年、1987年~2004年
- 秋華賞:1996年
- 菊花賞:1969年~2000年
- エリザベス女王杯:1970年~1990年(前身の「ビクトリアカップ」時代から通算)
- マイルチャンピオンシップ:1984年~1996年
- 阪神3歳S・阪神3歳牝馬S:1969年~1990年、1992年
[編集] 関東
[編集] その他
上記以外にもフジテレビのハイビジョン実用化試験放送で放送されていた「ハイビジョン競馬」で、地上波とは別にGIの実況を行った。(1993年から2000年まで)
[編集] 実況で残した名言
[編集] 1970年代
- 無冠の貴公子に春が訪れます (1973年天皇賞・春、優勝馬タイテエム)
- ハイセイコー、この淀のコースの走り心地はどうだ(1973年京都新聞杯、優勝馬トーヨーチカラ)
- ハイセイコーがたまらんという感じで先頭に立ちました。(中略)3コーナーの下り、ゆっくりとゆっくりと、ゆっくりと下らなければなりません。ゆっくりと下らなければなりません。(中略)ハイセイコーかタケホープか、ほとんど同時、ほとんど同時、内ハイセイコー、外タケホープ! (1973年菊花賞、優勝馬タケホープ、実際には杉本はタケホープの勝利と分かっていたが、ハイセイコー人気を考慮し、ほとんど同時と実況したと言われる)
- 今日は強かったハイセイコー!関西のお客さんも満足!! (1974年宝塚記念、優勝馬ハイセイコー、実はこの宝塚記念がハイセイコーの関西遠征での初勝利だった)
- 後ろからはなーんにも来ない! 赤い帽子がただ1つ(1975年桜花賞、優勝馬テスコガビー)
- イシノアラシもいます、ロングホークもいます。しかし、何か1頭足りません。この瞬間をどんなに待っていたかカブラヤオー。夏の過ごし方の難しさを、いやというほど知らされる第36回菊花賞です (1975年菊花賞、優勝馬コクサイプリンス この年の2冠馬カブラヤオーは故障のため出走できず)
- 見てくれこの脚、見てくれこの脚、これが関西の期待テンポイントだ! (1975年阪神3歳ステークス、優勝馬テンポイント)
- 見てるか天国の仲間たち、俺はお前たちの分まで走ったぞ!勝ったのはエリモジョージです。何もないえりもに春を告げた! (1976年天皇賞・春、優勝馬エリモジョージは休養の為故郷・えりも農場に帰っていた前年秋に同牧場の厩舎が原因不明の火事で全焼し、当時いた全14頭のうち彼ともう1頭を除く12頭が焼死するという悲劇にみまわれていた)
- あなたの、そして私の夢が走っています (1976年宝塚記念、優勝馬フジノパーシア。この名言は、翌年のテンポイントの有馬記念実況で一躍有名になったが、以降は1988年の宝塚記念まで長い眠りにつく)
- 今日はこれで充分だ、テンポイントはこれで充分だ(1976年京都大賞典、優勝馬パッシングベンチャ、テンポイントは3着)
- それ行けテンポイント、鞭などいらぬ、押せっ! テンポイント先頭だ! 内からグリーングラス!テンポイントかグリーングラスか!(中略)……グリーングラスです。内を通ったグリーングラス!テンポイントは2着! (1976年菊花賞、優勝馬グリーングラス TTG3強の幕開けはこのレースからだった)
- これが夢に見た栄光のゴールだ !(1977年天皇賞・春、優勝馬テンポイント)
- テンメイ先頭、トウメイが待っているぞ! (1977年菊花賞、優勝馬プレストウコウ。トウメイは1971年年度代表馬で、テンメイ(2着、のち天皇賞・秋を勝つ)の母)
- これは世紀のレース・中山の直線を流星が走りました! (1977年有馬記念(グランプリ)、優勝馬テンポイント)
- あ、どうしたんだ、テンポイントおかしいぞ(中略)テンポイントは競走を中止した感じ、これはえらいこと、えらいことになりました(1978年日本経済新春杯、優勝馬ジンクエイト。テンポイントが故障競走中止を起こしたレース)
- おっと、小島太がグラスを外した。(中略)楽々とビンゴガルーが先頭に立った。早いのか、これでいいのか、小島太、これでいいのか。ショウリで逃した大輪を今度はこのビンゴガルーで取るのか (1979年菊花賞、優勝馬ハシハーミット 1番人気で小島太鞍上の皐月賞馬ビンゴガルーはこの早い仕掛けで3着に敗れた)
[編集] 1980年代
- 「見てくれカムイオー」というところ(1980年桜花賞、優勝馬ハギノトップレディ「カムイオー」は弟のハギノカムイオー)
- 金襴緞子が泥にまみれてゴールイン(1981年桜花賞、優勝馬ブロケード)
- ハイセイコかわした!カツラノハイセイコ先頭!見てくれこの根性!外はカツアール!さあ先頭は、先頭はハイセイコ!白い頭巾鮮やかにハイセイコ1着!カツラノハイセイコです! (1981年天皇賞・春、優勝馬カツラノハイセイコ)
- 無冠の貴公子に春が訪れてから9年目、無冠のプリンスにも春が訪れました (1982年天皇賞(春)、優勝馬モンテプリンス。無冠の貴公子は9年前に天皇賞(春)を制したタイテエムが貴公子と呼ばれていたため)
- ホリスキー、ホリスキー、13番のホリスキー。また菅原だ! また菅原! (1982年菊花賞、優勝馬ホリスキー。鞍上の菅原泰夫騎手は前年にもミナガワマンナで菊花賞を勝っていることから)
- おお、青い帽子が上がっていった、ミスターシービーがグングン外から上がって行く、京都の正念場、第3コーナーの上りで行った、上りで行ったぞ!(中略)大地が、大地が弾んでミスターシービーだ! 史上に残る三冠の脚!拍手が沸く!19年ぶりの3冠! (1983年菊花賞、優勝馬ミスターシービー。タブーとされる京都競馬場の坂の上りでスパートをかけた。杉本はこの実況で三冠馬を初実況)
- 大歓声だ!大歓声だ!京都競馬場!赤い大輪が薄曇りの京都競馬場に大きく咲いた!!三冠馬・8戦8勝!!我が国の(中央)競馬史上、不滅の大記録が達成されました! (1984年菊花賞、優勝馬シンボリルドルフ)
- 雪はやんだ、フレッシュボイス! (1986年毎日杯、優勝馬フレッシュボイス。実際には全くやんでおらず、フレッシュボイスの末脚が雪が降っているのを気付かせないほどすごかったということである)
- ちょっとスローペースでありますが、そろそろ後ろの馬が動かないと前の馬が笑います。(1987年阪神大賞典、優勝馬スダホーク)
- 菊の季節に桜が満開!! 菊の季節に桜!!サクラスターオーです!!菊の季節に桜が満開になりました京都競馬場!(1987年菊花賞、優勝馬サクラスターオー)
- おお、これがオグリキャップ、噂にたがわぬ強さ! (1988年ペガサスステークス、 優勝馬オグリキャップ 笠松競馬からの転厩初戦でいきなりの快勝劇)
- 恐るべし、ジョッキーであります、武豊!父・武邦彦が成し得なかった天皇賞を見事に制覇しました! (1989年天皇賞(春)、優勝馬イナリワン このレース後、杉本と談笑した武邦彦調教師は「イナリワンなら俺が乗っても勝てる」と豪語している)
- シャダイは馬群に沈んだ…しかしびっくりだ!これはゼッケン番号6番、サンドピアリスに間違いない! (1989年エリザベス女王杯、優勝馬サンドピアリス。1番人気シャダイカグラはレース中故障を起こし、最下位負け。しかもサンドピアリスは最低人気だった)
- 内、オグリキャップかバンブーメモリーか…!負けられない南井克巳、譲れない武豊!この2頭の争いになりました! (1989年マイルチャンピオンシップ、優勝馬オグリキャップ。オグリキャップは前走天皇賞(秋)でスーパークリークに敗れていることから。また、マイルの雄バンブーメモリーは翌週にジャパンカップを控えたオグリキャップには負けられないとの雰囲気もあった。ちなみに、バンブーメモリーも連闘でジャパンカップに出走している。)
[編集] 1990年代
- おっと一頭故障か?一頭、赤い帽子が故障した模様であります。(中略)アグネスだ、アグネス1着~!そして2着にケリーバッグ3着にハリケンローズあとエイシンサニーと続きました。大歓声に送られてアグネスフローラ。(中略)勝ち時計は1分37秒1、上がりの3ハロンは38秒4、一頭落馬しています。(1990年桜花賞、優勝馬アグネスフローラ。本当は向正面でスイートミトゥーナ、3コーナーでレガシーワイスが落馬したので2頭が競走中止)
- メジロ両馬の争いか!…マックイーンだ!マックイーンだ!メジロでもマックイーンの方だ! (1990年菊花賞、優勝馬メジロマックイーン。同レースの一番人気はメジロライアン)
- 1週間遅れの18番です! (1990年エリザベス女王杯、優勝馬キョウエイタップ。このレースの1週間前のGIレースは上記の菊花賞だった。そして、メジロライアンの枠が18番枠であったことから。またメジロライアン・キョウエイタップ両馬に騎乗していたのはともに横山典弘だった。また著書「三冠へ向かって視界よし」内でとんねるず石橋貴明がこのフレーズが1番好きとのエピソードも書いていた)
- なんとイソノルーブルが落鉄してしまいました…蹄鉄の打ち換えに時間がかかっているようであります。(中略)ああ、イソノルーブルはこのまま出走のようです。(中略)シスタートウショウ角田晃一!4戦4勝!4戦4勝! 今年も汚れなき桜の女王の誕生です!((1991年桜花賞、優勝馬シスタートウショウ 冒頭はこのレースの1番人気、イソノルーブルが落鉄したところ)
- 今年もあなたの、そして私の夢が走ります。あなたの夢はメジロマックイーンか、ライアンか、ストーンか。私の夢はバンブー(バンブーメモリー)です (1991年宝塚記念、優勝馬メジロライアン。本人は実況がマンネリ化していると感じ、「今年も・・・」のフレーズは使わないと考えていたが、いざレースが始まると言葉が口をついて出てきてしまったために、「バンブーです」という実況アナウンサーとしては前代未聞の「自分の買った馬を公表する」という事態になった。バンブーメモリーは最下位負け。後述。)
- 前の2頭はもうどうでもいい。メジロマックイーンよ見ているか、これがトウカイテイオーだ!トウカイテイオーだ、これで天皇賞が楽しみ。メジロマックイーンよ見たか、トウカイテイオーが復活した。 (1992年産経大阪杯、優勝馬トウカイテイオー。後日、この実況のことで2頭の片方に乗っていた岡潤一郎騎手に謝罪をした)
- これから京都の大スタンドがうなります。そして京都の大スタンドがよじれます!(中略)トウカイテイオーと岡部幸雄は右斜め前方に、メジロマックイーンを見る形になりました。(中略)春の盾は、春の盾は絶対に渡せないメジロマックイーン、春の盾こそ絶対にほしいトウカイテイオー!(中略)メジロマックイーン!どんなもんだい!マックイーン!どんなもんだいといったところ!恐れ入ったというテイオーは4着か5着!!(1992年天皇賞春、優勝馬メジロマックイーン、マスコミ報道も過熱した2強争いを制し、同馬は史上初の天皇賞春連覇達成。)
- 菊近し 淀の坂越え 一人旅、ミホノブルボンであります。(中略)影は踏めない!ミホノブルボンの影は踏めない!三冠に向かって視界よし (1992年京都新聞杯、優勝馬ミホノブルボン、杉本本人は「菊近し・・・」の部分は邪道だとも著書で述べている。)
- スピード文句なし、パワー十分、問題はスタミナ…それも坂路で鍛えぬかれてぬかりなし。三冠馬へ、行け!ブルボン!(中略)ミホノブルボン逃げる逃げる、外からライスシャワー、ああ!ミホノブルボンは三冠ならず!ライスシャワーです!(中略)あ~というため息に変わりましたゴール前!昨年のレオダーバンと同じように、ダービーの2着馬が菊花賞を制しました! (1992年菊花賞、優勝馬ライスシャワー、シンボリルドルフ以来、無敗の三冠に挑んだミホノブルボンは2着に敗れた。)
- もう一度でた!でた!でた!またでたぞ~!メジロパーマーだ!またメジロパーマーだ!強い~、強い~!山田泰誠はこの馬の力を本当によく知っている (1993年阪神大賞典、優勝馬メジロパーマー)
- おお、ここに3番、怖い怖いライスシャワー。(中略)今年だけもう一度頑張れ! マックイーン! しかしライスシャワーだ、昨年の菊花賞でミホノブルボンの三冠を阻んだライスシャワーだ!ライスシャワーが完全に先頭に立った、ライスシャワー1着、マックイーンは2着~~~! 関東の刺客!ライスシャワーです。昨年のミホノブルボンの三冠と同じように、今度はメジロマックイーンの三連覇を阻止しました! (1993年天皇賞・春、優勝馬ライスシャワー レコードタイムでの圧勝だが、この勝利でライスシャワーは悪役の称号を得てしまった。)
- どんよりとした阪神競馬場に開くあなたの夢は先頭を行きますメジロパーマーか、それとも三番手を行きますメジロマックイーンか。私の夢は遠くフランスへ飛んでロンシャンであります。(1993年宝塚記念、優勝馬メジロマックイーン。)
- 2番手に1番のビワハヤヒデ。秋はなんとしても金メダルを、、というビワハヤヒデ。今日は覆面をとって素顔のビワハヤヒデであります。(1993年、神戸新聞杯、優勝馬ビワハヤヒデ。)
- 外からステージチャンプ!完全にビワハヤヒデ!完全にビワハヤヒデ! 菊の舞台で無念を晴らす!ビワハヤヒデ1着!2着ステージチャンプ!2着ステージチャンプ! ウイニングチケットは3着~!ウイニングチケットは3着! 菊の舞台で春の無念を晴らした、岡部とそしてビワハヤヒデ!完勝~!完勝です!3分4秒7!3分4秒7! (1993年菊花賞、優勝馬ビワハヤヒデ。前述の神戸新聞杯に続き、圧勝。春のクラシック2着惜敗の無念を晴らす)
- そして、第2コーナーにかかりました。阪神競馬場、バックストレッチの向こう側には鯉のぼりが泳いでいます。はたして、この鯉のぼりを見る余裕があるかビワハヤヒデ。(中略)兄貴も強い!兄貴も強い~!弟ブライアンに次いで兄貴も強ーい!!(1994年天皇賞・春、優勝馬ビワハヤヒデ。弟のナリタブライアンが皐月賞を楽勝したことから)
- F1ファンの夢乗せて、ア、ア、アイルトン・セナ、いや、アイルトンシンボリ!(中略)しかし、先頭はビワハヤヒデ。今日も涼しい顔をして、強い強いビワハヤヒデ!! (1994年宝塚記念、優勝馬ビワハヤヒデ。圧勝、日本レコードでのGI3勝目)
- 内からスターマンが来る!おっと、ナリタブライアン、ナリタブライアンピンチ、苦しい、変わった!スターマン!(数秒の間絶句)いやー、スターマン…藤田は怖い!(1994年京都新聞杯、優勝馬スターマン。当時二冠を達成していたナリタブライアンがスターマンに敗れたため杉本も絶句してしまった)
- 外からナリタブライアン、ナリタブライアン、弟は大丈夫だ!弟は大丈夫だ!10年ぶり、10年ぶりの三冠馬、ナリタブライアン、そして2着はヤシマソブリンで堅そうだ、ナリタブライアンだ、ナリタブライアン、三冠馬!! 弟は大丈夫だ!レコード~!レコード~!3分4秒6!兄貴のレコードを1/10秒縮めました!京都競馬場、南井コール! (1994年菊花賞、優勝馬ナリタブライアン。前の週の天皇賞(秋)で兄のビワハヤヒデが競走中に屈腱炎を発症して引退に追い込まれたため)
- 抜けたー! ライデン!(絶句)これは強い、恐れ入った! (1995年4歳牝馬特別(桜花賞トライアル)、優勝馬ライデンリーダー)
- メジロマックイーンも、ミホノブルボンも応援しているのではないでしょうか…(中略)…やったやったライスシャワー!!メジロマックイーンも、ミホノブルボンも喜んでいることでしょう!! (1995年天皇賞(春)、優勝馬ライスシャワー。名馬2頭を倒しながら低迷を続けていたライスシャワーが見事な復活。)
- おっと大歓声が上がった、一頭落馬!一頭落馬!これは何が落馬したんでしょうか。ライスシャワー落馬!ライスシャワー落馬であります!大波乱!大波乱!第3コーナーの下りであの、あの天皇賞では先行でわたったライスシャワーが落馬しています!(中略)さあ、内からダンツシアトル来るか!タイキブリザード!ダンツシアトルが内をすくうか!『私の夢』ダンツシアトルが内をすくうか!しかしまだタイキブリザード!タイキブリザード!外を通ってエアダブリンか!外からエアダブリン!しかし1番のダンツ出た!ダンツシアトル先頭!タイキブリザード!タイキブリザード!エアダブリン差を詰める!外からエアダブリン差を詰める!外からエアダブリン差を詰める!外からエアダブリンが差を詰めたが、しかし1着はダンツ~!ダンツシアトル1着~!(中略)あ~、、無残!!16番のライスシャワー骨折!!…なんとー!!…いやーこれは大アクシデントであります!16番のライスシャワー骨折!! (1995年宝塚記念、優勝馬ダンツシアトル。ライスシャワーはレース後、予後不良となってしまった。また自分の予想が的中してしまうということもあった(後述))
- 神戸は強い! 今年は神戸だ! マヤノトップガン! (1995年菊花賞、優勝馬マヤノトップガン。同年に阪神・淡路大震災が発生。神戸を本拠地に置くオリックス・ブルーウェーブがパ・リーグを制したことと冠名のマヤノは神戸の摩耶山から取ったため)
- 第3コーナーの下りでアクシデント!第3コーナーの下りでアクシデント!ちょっと第3コーナーの下りが気になります!4番ワンダーパヒュームの姿がありません、京都競馬場!桜は散ったのか第3コーナーの下り…大アクシデントであります!(1996年京都牝馬特別、優勝馬ショウリノメガミ 前年の桜花賞馬ワンダーパヒュームは坂の下りで故障し、予後不良となった)
- 内か、外か! 僅かに外か! (1996年阪神大賞典、優勝馬ナリタブライアンと2着のマヤノトップガンとの平成の名勝負。レース途中からゴールまで2頭が並走した。この年のみ土曜日開催であったため、VTR用の収録である)
- 2頭が抜け出すか!2頭が抜け出すか!またまた世紀、平成の、平成の名勝負になるのか!トップガン先頭!ナリタブライアン外から来る!ハギノリアルキング3番手!2頭が抜け出した!2頭が抜け出した!ブライアン、シャドウロールが揺れる!内がマヤノトップガン!かわすのかブライアン!ブライアンかわしたのか!ブライアン先頭だ!ナリタブライアン先頭だ!サクラローレル来た!サクラローレル来た!サクラローレル来た横山典弘だ!かわすのか~!、、かわった~!!またサクラだ~!またサクラが満開になる京都競馬場!サクラが満開だ!サクラロ~レル~! (1996年天皇賞・春、優勝馬サクラローレル。ナリタブライアン、マヤノトップガンの2強を撃破し、後に年度代表馬へ駆け登るきっかけとなった)
- あ、サクラローレル、どうしたんだ横山典弘、ああサクラローレルがかかった!サクラローレルはもう2番手まで行ってしまった!(中略)天皇賞にしては珍しく、出たり入ったり、出たり入ったり、流れが乱れている感じの天皇賞です。(中略)サクラローレルかマーベラスか、大外から何か突っ込んでくるぞ!トップガン来たトップガン来たトップガン来た!さあ3強の争いか、かわった、トップガンだ!(中略)トップガン、レコード!3分14秒4!レコード!ライスシャワーのレコードを3秒も更新しました! (1997年天皇賞(春) 優勝馬マヤノトップガン。超絶とも言えるレコードタイムでの快勝。)
- おのおの方、油断めさるな (1997年東京優駿(日本ダービー)、優勝馬サニーブライアン。「グレードA」用に実況したが、この語句はカットされ暮れの「夢競馬'97」で披露)
- 神戸、京都に続いて菊の舞台でも福が来た! (1997年菊花賞、優勝馬マチカネフクキタル。神戸新聞杯と京都新聞杯(当時は菊花賞トライアル)の2戦を連勝していたため)
- 日経新春杯、あの悪夢の大事故から20年が過ぎました。今年は冬のやわらかい日差しを受けて、15頭、全馬無事でゴールインしてもらいたいものであります(中略)襟裳に春を告げたのはエリモダンディーです!一足早い春は襟裳!襟裳に届きました!エリモダンディーです!(1998年日経新春杯、優勝馬エリモダンディー。テンポイントが故障競走中止して20年経ってのレースだったが、優勝したエリモダンディーも、このレース後に骨折が判明、後に療養中に腸捻転を起こして死んだため、縁起でもないフレーズとなってしまった)
- ブライトだ!ブライトだ!メジロ牧場に春!!(中略)メジロブライトだ!羊蹄山の麓に春!!(中略)メジロブライト!ライアン…父が成し得なかった天皇盾を見事に獲得しました!! (1998年天皇賞・春、優勝馬メジロブライト)
- 今年もあなたのそして、私の夢が走ります。先頭を行きますのは一番人気、一番人気、一番たくさんの人が夢を乗せたサイレンスズカが先頭です。(1998年宝塚記念、優勝馬サイレンススズカ)
- セイウンスカイ、マイペースだ、しめしめと言う感じか横山典弘。(中略)もう一頭前にいた!セイウンスカイ、逃げ切るのか、ハククラマ以来の逃げ切りになるのかセイウンスカイ!(中略)まさに今日の京都競馬場と同じ青空!今日は青空だ!38年ぶりの逃げ切り、セイウンスカイ、レコード! (1998年菊花賞、優勝馬セイウンスカイ。のちに天皇賞を春秋制覇するスペシャルウィークに影さえ踏ませぬ逃亡劇を果たす)
- おお、武豊は左右を確かめている、グラスワンダーを探しているのか。グラスワンダーは後ろにいるぞ、真後ろにグラスワンダー。さあ、相手をこれと決めた時の的場は怖いぞ!(中略)もう言葉は要らないのか!2頭の一騎打ちになる!(中略)やっぱり強いのは強い!! (1999年宝塚記念、優勝馬グラスワンダー。ステイゴールド、キングヘイローら後のGI馬をも置き去りにした伝説の一騎打ち)
- ナリタトップロード先頭!ついにやったあ!渡辺やったあ! (中略)サッカーボーイも喜んでいる! (1999年菊花賞、優勝馬ナリタトップロード、惜敗続きにピリオド、3強でクラシックを分け合う結果に。サッカーボーイ産駒はGI初制覇。)
[編集] 2000年以降
- やっぱり3頭の争いになった!やっぱり3頭の争いになった!もう言葉は要らないか!言葉は要らないか!さあテイエムオペラオー!テイエムオペラオー!トップロード!外からラスカルスズカが迫る~!ラスカルが迫る!しかしテイエムだ!テイエムだ!ラスカルかわして2着~!ラスカルスズカが2着!テイエムオペラオーやった和田竜二!和田竜二やったニッコリ!岩元市三調教師、調教師となって夢がかなった!やったぞ~和田!3強の頂点は俺だ!高らかに歌うは『盾の歌』!テイエムオペラオーです! (2000年天皇賞・春、優勝馬テイエムオペラオー)
- アイ・アム・ナンバーワンと言ったところであります (2000年宝塚記念、優勝馬テイエムオペラオー)
- 私が初めて菊花賞を実況したのは昭和44年、アカネテンリュウが勝った年でした。それから年を重ねること32年。今年が清、最後の菊花賞です。(中略)歓声が湧くホームストレッチ。かつてあのメイズイが大逃げをうったホームストレッチ。今年はあのような逃げ馬はいません。(中略)第一コーナーから二コーナーへ、ここからスパートをかけて勝ったのがあのニホンピロムーテーでした。(中略)色んなドラマが展開されてきた第三コーナーの頂上。たまらんという感じで先頭に立ったのが、あのハイセイコーでした。3、4コーナー中間点、このあたりから一気に先頭に立って、菊花賞を獲ったのは、ミナガワマンナとホリスキー、この2頭です。(中略)エアシャカール出た。菊花賞は皐月賞馬だ!にっこり、アメリカ帰りの武豊!やった、やったエアシャカールです。(2000年、菊花賞、優勝馬エアシャカール。最後の菊花賞実況。オールドファンを歓喜させる名実況。)
- ドトウの執念が通じるのか、ドトウの執念が通じるのか、ついに一矢を報いるか、ついに夢の一矢を報いるか(中略)やった~!安田~! (2001年宝塚記念、優勝馬メイショウドトウ)
- バランスオブゲームがバランスを崩した(中略)またまたミラクルだ!阪神競馬場! (2003年宝塚記念、優勝馬ヒシミラクル)
- これで胸を張って凱旋門賞へ行けるぞ~!! (2004年宝塚記念、優勝馬タップダンスシチー)
[編集] 私の夢・ブラックデビル
長年関西テレビの競馬中継で実況を担当してきた杉本清による「あなたのそして私の夢が走っています」という言葉は、宝塚記念を象徴する名言となっている。
杉本は2000年の菊花賞で実況生活に一旦区切りをつけて以来、宝塚記念だけは毎年実況していたが、2004年を最後に宝塚記念の実況からも引退。2005年以後の宝塚記念の実況は関西テレビの石巻ゆうすけアナウンサーが務めている。引退後初の杉本の「私の夢」はアドマイヤグルーヴ(8着)であった。
予想では、彼の打つ本命印(俗に「私の夢」と呼ばれている。少し前は「杉本情報」などとも呼ばれていたことがある)に競馬関係者が恐れをなし、果ては疫病神扱いされている。なぜなら、本命印を打たれた馬が勝てないからである。しかし、彼自身が己の打った印どおりに馬券を買うことはない。関西テレビ「さんま・清の夢競馬」で、同郷出身で以前から親交も深い明石家さんまに恒常的にネタにされ、挙句の果てには「世界のブラックデビル」(「オレたちひょうきん族」より。「世界の」は、オリビエ・ペリエ騎手やジャパンカップ出走の一部外国馬関係者から忌み嫌われたことによる)の称号までもらい、悪魔のカチューシャまで進呈される羽目になった。2002年の東京優駿(日本ダービー)の直前には、タニノギムレットの関係者が揃って「馬は絶好調だし心配することはほとんどないが、杉本さんの◎だけが唯一心配だ」と言った(結果はタニノギムレット優勝)。
「私の夢」が事実上最初に注目されたのは後述の1991年の宝塚記念でのバンブーメモリーであり、この時は周囲の嘲笑で大恥をかいた上に、バンブーメモリーを管理する武邦彦調教師からも「走らんかったな」と言われている。翌1992年には、宝塚記念直前に「プロ野球ニュース」の取材で訪れた甲子園球場で、岡田彰布や真弓明信ら阪神タイガースの競馬好きな選手に軽いノリで「ダイユウサクがええで」と言ったら、発言が「杉本情報」として広まってしまった。ダイユウサクの結果は8着で、杉本自身は影でボロクソに言われないか心配していたという(いずれも出典は杉本著作の『あなたの、そして私の夢が走っています』より)。1994年には、ナリタブライアンが優勝した日本ダービーの予想で、クラシック追加登録料を払って出走してきたスギノブルボンという馬を執拗に推奨し(さんまにもスギノブルボンがらみの馬券(ナリタ―スギノの馬連)を無理やり買わせた。ダービー前日の「スポーツWAVE」で公表)、惨敗(16着)ののちさんまに「杉本さんが小声で『スギノブルボンがええで・・・』なんて言うから…」と言われている。
杉本は立場上、さんまなどや競馬関係者と接する機会が非常に多いが、そこから得た情報が有利に作用(的中)しているわけではない。新聞などで公表した「私の夢」の買い目と、「ドリーム競馬」の中で言った買い目が異なる場合があるのもこのせいである。新聞で公表する分は土曜日の正午が締め切りであり、日曜日放送の「ドリーム競馬」とはどうしても差が出来る(土曜夜の「スポーツうるぐす」での予想は、新聞用原稿を元にしている)。その間に天候や馬体重、気配など当日でないと分からない様々な情報が入り、そのたびに買い目も変わり、結果的に「新聞では当たっていたのに、番組では外れ」という場合も生じる。
「私の夢」とは若干異なるが、「さんま・清の夢競馬'95」の有馬記念予想対決において◎を打ったステージチャンプが直前で回避してしまい、「出走せず」で不戦敗になったことがある。また、実況はしなかったがディープインパクトの三冠のかかった2005年の菊花賞では、井崎脩五郎と予想が一致、ともに本命ディープインパクト、対抗アドマイヤフジだったが、アドマイヤフジは6着に敗れた。
「私の夢」は以下で定期的に知ることが出来る。
- 「ドリーム競馬」ホームページ(外部リンク参照。関西の重賞のみ)
- 関西テレビモバイルサイト(他場の予想もあり)
- 朝日新聞土曜日朝刊スポーツ面(GIレースの日のみ。当初は大川慶次郎と、大川の死後は原良馬と組んで予想)
- スポーツ報知(報知新聞)日曜日競馬面(以前は関西版だけだったが、2005年10月より、関東版でも見ることが出来るようになった)
2006年1月からは「ドリーム競馬」で、予想したフォーカスのオッズがすぐ画面に出てくるシステムの試験を兼ねたコーナーが出来、そこで3連単1点の予想を行っているが、2007年3月現在まで的中した事は一度もない。
[編集] 宝塚記念での「私の夢」
- 1991年:バンブーメモリー(結果は10頭立ての10着のしんがり負け)
- 1993年:ロンシャンボーイ(スタート前にゲートから飛び出し大差の最下位)
- 1994年:マチカネタンホイザ
- 1995年:ダンツシアトル (1着に入ったものの天皇賞馬ライスシャワーが故障のため落馬・競走中止)
- 1996年:フジヤマケンザン(同年で関西テレビを定年退職したため、『私の最後の夢は』と言う。5番人気で人気どおりの結果に)
- 1997年:ヤシマソブリン(この年よりフリーランスで実況を始め、『私の新しい夢は~』と言う。)
- 1998年:ミッドナイトベット(10着に惨敗。管理する長浜博之調教師が「何、杉さんが本命打ったの?」と発言)
- 1999年:サイレンススズカ(前年の天皇賞のレース中に骨折のため安楽死。スペシャルウィークとグラスワンダーとの直接対決の様相に「もし、生きていたら…」の意味を込めて。ちなみに杉本アナがサイレンススズカのレースを実況したのは1998年の宝塚記念と1997年の神戸新聞杯のみ。ちなみにSTARHORSE2でもこれは再現されている)
- 2001年:ステイゴールド(「迷いに迷って」と言ったが4着に惜敗)
- 2002年:トウカイオーザ(HPではローエングリンだったが変更。急遽熊沢重文から池添謙一に乗り替わり8着)
- 2003年:ダイタクバートラム
- 2004年:ゼンノロブロイ(後にGIレース3連勝する馬も4着に敗退)
- 2005年:アドマイヤグルーヴ
[編集] 競馬関係者との交流
競馬関係者との交流が幅広いのは言うまでもないが、それでも関東所属や地方競馬の関係者の中にはあまり顔を知らない人もいる。かつて関東所属の関係者で縁が深かったのは福永洋一と同期の柴田政人や、菊花賞2連覇の菅原泰夫が代表格で、岡部幸雄とは挨拶や対談程度で深いつきあいはなかった。しかし、岡部が引退して評論家に転身してからは、一緒に仕事をする機会が急増している。また、園田競馬場・姫路競馬場の場内実況で有名な吉田勝彦とも交友がある。
[編集] その他
プロ野球は長年南海ホークスのファンだったが、ホークスの身売りに伴う福岡移転で杉浦忠監督(当時)の「ホークスは不滅です。行ってまいります」というコメントを聞いて感無量となり、それを機に野球ファンをやめた。
[編集] 許可なし実況事件
前述のように、1990年からアナウンサー職ではなく「専門職」となり、関西テレビ関係以外での仕事もするようになった杉本であったが、1996年8月15日に旭川競馬場で行われた第8回ブリーダーズゴールドカップ(優勝・メイショウアムール)で、たまたま夏休みで(別の仕事説あり)旭川競馬場に来ていた杉本がレース実況も行った。杉本本人は「専門職」でもあり、また地方競馬を盛り上げる意味合いで引き受けたとされるが、「許可なし」でやったことを主催者側と関西テレビが問題にし(先の「専門職」に関する説明とは随分異なる反応であるが)、翌1997年に発売された地方競馬の交流重賞の映像を集めたビデオ「ビデオハロン96前期」では、このレースの実況が別のアナウンサーに差し替えられている。なお、定年退職後も同レースを含む地方競馬の実況をしばしば行っていた。
[編集] 現在出演中の番組
- DREAM競馬(現在はご意見番。2007年以降は司会的ポジションに移動する可能性がある)
- スポーツうるぐす(日本テレビ)※中央競馬GIレースの週限定
- サタうま!(関西テレビ放送)※明石家さんまとのGI予想コーナー
- さんま・清の夢競馬(関西テレビ放送)
- JRAサウンドコース(fm osaka)
- 杉本清のK-BAR(TOKYO FM)
[編集] CM
- NINTENDO DS(任天堂)
- サクロン(エーザイ)
- 「ダービータイム」(PSPソフト。ソニー・コンピュータエンタテインメント)
- 日本中央競馬会
[編集] 過去の出演CM
- 大阪ガス
- 浜大津アーカス(実況)
[編集] ゲーム
- STARHORSEシリーズ(実況)
- STARHORSE2シリーズ(実況)
[編集] 参考文献
- 杉本清、鈴木淑子「杉本清の競馬談義番外編 特別企画/杉本清 関西テレビ定年退職記念」『優駿』1997年4月号、日本中央競馬会
- 『あなたのそして私の夢が走っています』、双葉社、ISBN 4575711039
- 『三冠へ向かって視界よし』、日本文芸社、ISBN 4537065427
- 『これが夢に見た栄光のゴールだ―名実況でつづる永遠の名馬たち』、日本文芸社、ISBN 453725050X
[編集] 補足
- 1995年1月17日早朝、兵庫県南部を襲った阪神・淡路大震災の際は、関西テレビのアナウンサーが総動員で被災地の現場や最新情報などをレポートしたが、杉本アナだけは「競馬実況のイメージが強すぎる」との理由から震災報道には加わらなかった。また、ニュースもあまり担当することはなく、KTVワイドニュース(FNNスピーク)内でのローカルニュースを担当する程度であったが、1980年代中盤以降はそれもほとんどなくなった。定年退職の日には久方ぶりにニュースを担当した。
- 同じ杉本姓で自身が定年退職した1997年に入社した杉本なつみアナウンサーとは直接のつながりはないが、1999年のセンバツに母校・高田高校が出場した際、杉本なつみの高田高校への取材に高田高校卒業生ということで同行。生徒に「親子ですか?」と聞かれ、「親子に見えるか?」と答えていた。
- 家族は妻と長男。長男の名前が横山典弘と同じであり、「『弘典』で同名は多くいるが、『典弘』で同名というのはそんなに多くないだろうから珍しい」と著書の中で語っている。
- 大川慶次郎、杉本清、井崎脩五郎の予想が重なった場合全く当たらないと言われており、2005年菊花賞で杉本、井崎の予想が重なった際、「天国の大川さんも同じだろう」と二人で笑い合っていた。
- 2005年7月ごろに放送された『アッコにおまかせ!』(TBS)にて安東弘樹アナが「定年退職して、フリーとして成功したアナは杉本清さん」と言っていた。その事から定年退職してフリーとして成功したアナと言える。
[編集] 関連人物
- 松本暢章(関西テレビ時代の先輩)
- 桑原征平(関西テレビ時代の後輩)
- 杉山一雄(同上)
- 馬場鉄志(同上)
- 毛利八郎(同上)
- 梅田淳 (同上)
- 石巻ゆうすけ(同上)
- 大橋雄介(同上)
- 岡安譲
- 大坪元雄
- 宮川一朗太
- 水野麗奈
- 柳沼淳子
- 以上は「ドリーム競馬」関係
- 明石家さんま(関西テレビで競馬予想対決)
- とんねるず
- 江川卓
- 吉田勝彦
[編集] 外部リンク
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