モースル
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モースル(日本での報道などでの表記は通常モスル、英語表記:Mosūl、アラビア語表記:موصل al-Mawsil, クルド語表記:MûsilまたはNineveh, アッシリア語表記:ܢܝܢܘܐ, 'Ninewa')はイラク北部に位置する、古代のニネヴェの遺跡と世界有数の石油生産で知られる都市である。バグダードの396km北西にあり、北緯36度22分、東経43度07分。市街はチグリス川の両岸に広がり、五つの橋で結ばれている。
モースル市の住民はほとんどがアラブ人であるが、周囲の地域はクルド人地域になる。また主要な少数民族にはネストリウス派キリスト教徒のアッシリア人が、その他トルクメン人も住んでいる。1987年の市の人口は664,221人で、2002年の調査では1,739,800人と見積もられるほど激増した。人口に関するリンク これはおそらく、サッダーム・フセイン政権によるモースルの「アラブ化政策」により大量のアラブ人が流入したことに関係があると思われる。モースルはイラクでバグダードに次ぎ2番目の人口の大都市である。
モースル一帯はクルド人が古くから大勢住み、モースルも元来クルディスタンの重要都市として認識されているなど、民族的・政治的に複雑な問題も抱える。
薄地の織物モスリンはもともとこの街で作られ、名前もモースルの名に由来している。その他歴史的に重要な輸出産品は大理石である。マルコ・ポーロの東方見聞録では、イタリア人で「ムッソリーニ(Mussolini)」の姓を持つものはモースルの商人の末裔だと述べている。
モースル周辺は、チグリス川・ユーフラテス川の両方に潤される肥沃な平野で、アラブ人は北メソポタミアのこの地をジャズィーラ(島)と呼び、穀物や果物の豊富さを称えてきた。また、古くから石油が湧くことでも知られており、石油につかると薬効があると信じる人々が集まり、石油はタールやアスファルトの原料、また攻城戦の際、攻め手に石油を浴びせて燃やしたり、城壁を燃やして崩し城に侵入するなど主に軍事用に使われていた。
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[編集] 歴史
[編集] 古代からオスマン帝国までのモースル
モースル周辺は少なくとも8,000年前から人の居住があった。モースルの位置する北メソポタミアよりさらに北の高原地帯(アッシリア)はアッシリア王国誕生の地となったが、その最盛期を迎えたのはモースル周辺を首都とした時代だった。モースルはアッシリアによって、主要都市ニネヴェ(現在のニネワの町)の対岸に当たるチグリス川右岸のクリートの丘の上の砦として創られた。紀元前850年ごろ、新アッシリア王国のアッシュールナツィルパル2世は、モースルのすぐ南にあったニムルドの街を自分の首都を建設する地として選んだ。首都は一旦ドゥル・シャルキンに移ったが、紀元前700年ごろ、センナケリブ王はニネヴェを新しいアッシリアの首都とすることを決めた。モスルにあるクユンジクの土塁は、ペルシャ・メソポタミア・シリアを征服した世界帝国アッシリアの最盛期を築いたセンナケリブ王とその曾孫アッシュールバニパル王の宮殿の跡である。またニネヴェは旧約聖書のヨナ書の舞台にもなるなどその名はよく知られている。
アッシリア初期の砦の上に立てられたモースルは、アッシリア滅亡後ニネヴェの跡を継ぐ都会となり、ペルシャ帝国の中心からシリアおよびアナトリアを結ぶ道のチグリス川渡河点として栄えた。モースルは紀元前6世紀には重要な交易拠点となった。短期間ローマ帝国に支配されたあと、サーサーン朝ペルシア帝国の一部となった。
637年に第2代正統カリフウマル・イブン=ハッターブが率いるムスリムのアラブ人たち(アラブ帝国)がサーサーン朝に大打撃を与え、その年の内にムスリムの支配下に置かれた。イスラム史上最初の世襲イスラム王朝ウマイヤ朝は、8世紀にモースルをメソポタミアの首都に抜擢し、モースルは繁栄の絶頂を迎えた。
その後のアッバース朝時代も、モースルはインド、ペルシャ、地中海を結ぶ戦略的位置から重要な商業都市であり続けた。アッバース朝衰退後は890年にアラブ遊牧民(ベドウィン)のハムダーン朝がモースルを首都にジャズィーラを支配し、ペルシアから来たブワイフ朝と戦ったが10世紀末にはブワイフ朝に屈し、990年、アラブ系のウカイル朝にモースルを奪われる。11世紀後半、この地はマリク・シャー率いるセルジューク朝に席巻され征服されるが、セルジュークの急激な西方への拡張は十字軍を呼ぶことになる。
1127年、十字軍国家がシリア・パレスチナを支配していた時代、それまでセルジューク朝の地方政権(アタベク政権)が入れ替わり立ち代り治めていたモースルは、新しいアタベク・ザンギーによる強力な政権、ザンギー朝の中心となり、やがて十字軍への反攻の拠点となった。ザンギー朝はザンギー死後モースルとアレッポ(シリア)の二つに分かれ、十字軍と戦ったシリア側に対しメソポタミアのモースルの方はシリアに距離を置いていた。シリアのザンギー朝の跡を継いだサラディンは1182年この都市を征服しようとして失敗するが、その後13世紀にフレグ率いるモンゴル帝国の侵攻の際、太守マリク・サーリフは反抗の意思を示したため、籠城戦の末に街は降伏し、住民は虐殺され都市は完全破壊された。
後にオスマン帝国の支配の下でモースルは再建され再び重要都市となったが、かつてのような栄光は戻らなかった。オスマン帝国のモースル支配は、1623年にサファヴィー朝ペルシャの最盛期を築いたアッバース1世による征服で中断されたが彼の死後に奪還し、1918年まで及んだ。オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダードとバスラ、そしてモースルをそれぞれ州都とする3つの州として統治していた。
モースルは、ネストリウス派キリスト教徒の歴史的な中心地で、ヨナを含む数名かの旧約聖書の預言者たちの墓所がある。ヨナの墓所はキリスト教徒とイスラム教徒の両方から重要視され、もともとはネストリウス派教会だったが現在モスクとなっている。ほかにも、ニネヴェの滅亡を預言したナホムの墓所とされる墳墓(真偽不明)もある。
[編集] 20世紀のモスル
第1次世界大戦で、イギリス軍は1918年10月にオスマン帝国と戦いモースルを占領した。第一次世界大戦末になって、イギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配する協定(サイクス・ピコ協定など)を結び、現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められた。大戦が終結した時点でもモースルとその一帯は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、イギリスはセーヴル条約によりモースルを放棄させ、1921年に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領のイラクを成立させた。モースル地域の権利を主張するトルコ共和国は委任統治領イラクに抵抗したが、イラクのモースル領有は1926年に国際連盟で確定した。
モースルの陸路でヨーロッパ~インドをつなぐ戦略的重要性は、海運で大量の物資を運べるスエズ運河開通後薄れたが、都市の運命は石油の発見と1920年代後半以降の開発で大きく蘇った。モースルは石油をトラックやパイプラインでトルコやシリアに運ぶ際の拠点となった。キュアラー(Qyuarrah)石油精製所が都心から車で1時間以内の場所に建設され、道路建設計画のために石油を精製していた。この精製所はイラン・イラク戦争で損傷したが、破壊には至らなかった。
モースルはまた、モースル・ダムや近隣の火力発電所を抱えるイラクの電力供給の鍵となる地域である。モースル大学の設立は、この一帯の人々が高等教育を受ける機会を作り出し、多くの学部を抱えるが特に優秀な工学科と言語学科で知られている。
[編集] サッダーム政権とクルド人問題
モースルの人口の大部分を占めていたクルド人の存在は、元大統領サッダーム・フセインに反クルド軍事行動を起こさせる契機となった。特にクルド人が反体制運動を試みた1990年代には軍事行動が激化し運動は失敗に終わった。その反体制運動失敗の結果として米国と英国が介入して北緯36度線以北に「北部飛行禁止区域(1991年~2003年)」が設定され、イラク北部及び北東部の帯状のクルド人居住地域は、クルド愛国同盟とクルド民主党の手に落ち、この地域で自治(事実上の独立)を開始した。モースルはクルド人自治区の手に落ちなかったが、この飛行禁止区域には含まれていた。
飛行禁止区域はサッダーム・フセイン政権にクルド人地域に対する大規模な軍事作戦を起こさせない役割を果たしたが、モースルの人口構成を次第に変えてゆく「アラブ化政策」という堅い政策の実施をやめさせることはできなかった。ただし、この政策にもかかわらず、モースルとその一帯の村々は今でもアラブ、クルド、アッシリア、トルクメン、いくらかのユダヤ人、その他孤立したヤズディ教徒(クルド人など)の混合地帯のままである。サッダーム・フセイン政権はモースルに第5軍を駐屯させ、国際線の就航可能な空港を軍の支配下に置き、市民から大量に徴兵を行った。
[編集] サッダーム政権後のモースル
2003年のイラク戦争が計画された後、アメリカはもともとトルコに軍を駐屯させイラク北部に突入させモースルを占領し戦略的に死活的な近郊の油田を確保するつもりだった。しかしトルコ内閣が作戦に了承せず、2003年3月の開戦後アメリカ軍はモースルに空爆と特殊部隊の降下を行い、バグダード陥落の2日後、イラク軍のモースル放棄にともない2003年4月11日に占領した。クルド人兵士はトルコに対する警戒のためすぐさまモースルを占拠した。(トルコはクルド人の独立への試みと、それに対するトルコ南部やシリア東部のクルド人の同情を恐れていた。)アメリカの占領軍はクルド人兵士を退去させた。
2003年4月15日、米軍部隊は、モースルで反占領デモを行う群集が石を投げ始め米軍の占拠するビルに発砲したため群集に撃ち返した。少なくとも10人のイラク人が殺され多数が負傷した。
2003年7月22日、サッダーム・フセインの息子、ウダイとクサイがモースルで米軍を中心とする多国籍軍の攻撃で殺害された。一方、市街はイラク戦争(「イラクの自由作戦」)のための陸軍第101空挺師団の作戦基地として使われた。第101空挺師団は広範囲にわたって街を調査し、他の部隊やNGO、市民の助言をもとにモースル市民を雇用しての市街再建作業に取り掛かり、電気や上下水道や道路の再生、汚水やゴミ清掃などの活動を行った。
2004年12月21日、14人の米軍兵士と4人のアメリカ人(ハリバートン社勤務)、4人のイラク人兵士がモースルの米軍飛行場内にある前線作戦基地の食堂に対する攻撃で殺害された。国防総省はイラク軍の制服の下に爆発物をつけたベストを着た人物が施設に入り自爆テロを起こした可能性が高く、死者のほかに72人がこの攻撃で負傷したと発表した。イスラム過激派組織、「アンサール・アル・スンナ軍」(アンサール・アル・イスラムの下部組織)はインターネット上で犯行声明を出した。