ダニエーレ・バリオーニ
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ダニエーレ・バリオーニ(Daniele Barioni, 1930年9月6日 - 、生年には1933年説もあり)は1950年代から60年代にかけて活躍したイタリアのテノール歌手である。活躍の時期は短かったが、その強烈なスピントの声質でオペラ・ファンに強い印象を残した。
[編集] 経歴
フェラーラ近郊コッパーロの農家に生まれ、ミラノで声楽の研鑽を積む。はじめバリトンの声域からスタートしたともいう。
1949年にはコンサートに出演したとの記録もあるが、1954年、ミラノ・ヌォーヴォ劇場のマスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』トゥリッドゥ役で本格的な舞台デビューを飾り、すぐにイタリア各劇場で活躍するようになった。
ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場(メト)の支配人ルドルフ・ビングがその評判を聞きつけ、デビュー2年後の1956年2月にはプッチーニ『トスカ』カヴァラドッシ役でメト・デビューを飾った。メトには1961年-62年シーズンまで7シーズン参加し、『カヴァレリア』、『蝶々夫人』ピンカートン役、『椿姫』アルフレード役、『ラ・ボエーム』ロドルフォ役などリリコ系の役柄で54回の舞台に立った。
1960年代に入るとイタリアに移り、特にローマ歌劇場を拠点として活動した。レパートリー中には次第にスピント系の役柄、例えば『西部の娘』ジョンソン役、『イル・トロヴァトーレ』マンリーコ役、『アンドレア・シェニエ』題名役なども加わるようになり、特に『トゥーランドット』カラフ王子役は高い評価を得た。
1966年になり、幸福と不幸が同時にバリオーニを襲う。3月にようやく念願のミラノ・スカラ座デビューを『カヴァレリア』で果たすが、同年イタリア系アメリカ人でありピアニストの妻ヴェラ・フランチェスキを37歳の若さで白血病で失い、バリオーニは以降、ステージに対する関心を次第に失っていった。
その後はアメリカとヨーロッパの中小歌劇場を中心に細々と舞台を継続したが、1972年、ナポリ・サン・カルロ劇場への出演記録を最後にオペラ舞台から事実上引退した。1981年、故郷フェラーラでのレナータ・テバルディのリサイタルに参加したのが公の舞台としては最終である。
[編集] 評価
バリオーニはその短い現役時代の当時から、発声が高音域を必要以上に「押す」傾向にあることを批判された。マリオ・デル=モナコの模倣あるいは亜流との評価もあった。あまりにスピント系の力強い歌唱を追求し過ぎたことからくる疲弊も、妻の早世とともにその早すぎる引退の一因であろう。
しかし、その長大なブレスでどこまでも延びる輝かしい高音にはファンも多かった。バリトンからスタートしたというだけあって、中低音域のしっかりしている点も独特の魅力を秘めていた。
その力強い声は共演者にとっては脅威でもあった。メトでマリア・カラスと『椿姫』で共演した際(1958年)、カラスは自らの声がバリオーニのそれに声量、声の輝きともに劣って聴こえたことから以降の共演を拒否したという有名な逸話がある。マリオ・デル=モナコも1959年にバリオーニの声をライブで聴き感銘、「このまま自分の道を進め、誰も君を模倣できないのだから(Vai sicuro, che nessuno ti puó fregare.)」と言ったと伝えられる。もっとも同じデル=モナコは後年バリオーニの舞台出演が稀になった際には「運の良いことにバリオーニはいなくなった。彼が元気だったら我々は皆失職だったよ(Per fortuna che Barioni si è defilato, altrimenti ci mandava tutti a rapanelli.)」とも言ったという。
なおバリオーニの商業録音はほとんど存在しない。彼の同時代にフランコ・コレッリ、カルロ・ベルゴンツィなど優れたイタリア人テノールが目白押しだったことが主因と考えられる。著名レーベルからはプッチーニ『つばめ』La Rondine全曲のスタジオ録音(RCA、1966年)を発売しているが、これは彼の魅力を聴くには最適のレパートリーとは言い難いし、そこではプリマドンナ、アンナ・モッフォの引き立て役に甘んじている感がある。
バリオーニの魅力を知るには、RAI主催のコンサートでの様々のアリア、および海賊盤での劇場ライブ録音に頼らざるを得ない。特にヴェネツィア・フェニーチェ劇場での『トゥーランドット』ライブ(1966年1月22日)は絶品である。第1幕終盤、「泣くな、リュー」Non piangere, Liùの後、カラフ王子が"Turandot!"と3度叫びつつトゥーランドット姫に求婚するシーンで、バリオーニは最後の"Turandot!"を無慮16秒間にわたって最高音で響き渡らせて(しかも台本の通り、舞台上の階段を駆け上がり、銅鑼を3回打ち鳴らしつつ、である)、劇場の聴衆を狂喜させている。