ディエゴ・ベラスケス
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ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599年6月6日 - 1660年8月6日)はバロック期のスペインの画家。
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[編集] 生涯
マネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する巨匠である。
スペイン南部の都市セビリャに生まれ、11歳頃に当地の有力な画家で義父でもあるフランシスコ・パチェーコに弟子入りした。17世紀のスペイン画壇では、厨房画(ボデゴン)と呼ばれる室内情景や静物を描いた絵画が多く制作されたが、宮廷画家になる前のベラスケスもこの厨房画のジャンルに属する作品を描いていた。『卵を料理する老婆と少年』(1618年)などがその代表作である。1623年、国王フェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描いた。
美術愛好家であったフェリぺ4世は、ベラスケスを厚遇し、画家のアトリエにもしばしば出入りしていたという。当時、画家という職業には「職人」としての地位しか認められなかったが、フェリぺ4世は晩年のベラスケスに宮廷装飾の責任者を命じ、貴族、王の側近としての地位を与えていた。
ベラスケスの作品では、画面に近づいて見ると、素早い筆の運びで荒々しく描かれたタッチにしか見えないものが、少し離れたところから眺めると、写実的な衣服のひだに見える。このような、近代の印象派にも通じる油彩画の卓越した技法が、マネらの近代の画家がベラスケスを高く評価したゆえんである。
[編集] 代表作
[編集] 『ブレダの開城』
王の離宮の「諸王国の間」という大ホールを飾るために描かれた戦勝画。1625年、ネーデルラント南部の要塞ブレダにおけるスペイン軍の戦勝を記念して制作されたもので、敗れたブレダ守備隊の指揮官ユスティヌス・ファン・ナッサウ(オラニエ公ウィレム1世の庶子)が、勝者であるスペイン側の総司令官アンブロジオ・スピノラに城門の鍵を渡そうとする場面が描かれている。
この種の戦勝画では敗軍の将は地面に膝をつき、勝者はそれを馬上から見下ろすという構図が普通であったが、この『ブレダの開城』では、敗軍の将ユスティヌスと勝者スピノラは同じ地面に対等の位置で立っている。温和な表情のスピノラは、まるで長年の友人に対するように敗者ユスティヌスの肩に手を置いている(ちなみに両者は1601年にニューポールトで対戦したこともある)。スピノラの傍らに大きく描かれた馬は、彼が敗者に敬意を表するためにわざわざ馬から下りたことを示している。このような、勝者側の寛大さを二重三重に強調した表現は、敗者に名誉ある撤退を許したスペインの騎士道精神の勝利を表したものといわれている。
[編集] 『教皇インノケンティウス10世の肖像』
1649年、ベラスケスは2度目のイタリア旅行に出かけ、ローマに2年ほど滞在している。この間に描かれた教皇インノケンティウス10世の肖像は、カトリックの最高位にある聖職者の肖像というよりは、神経質で狡猾そうな一人の老人の肖像のように見える。国王、教皇から道化師まで、どのようなモデルをも冷徹に見つめ、人物の内面まで表現する筆力はベラスケスの特長である。
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[編集] 『鏡のヴィーナス』
1650年頃 ロンドン、ナショナルギャラリー蔵
上記『教皇インノケンティウス10世の肖像』と同じ頃に描かれたもので、カトリックの伝統の強い当時のスペインでは珍しい裸婦像である。
[編集] 『ラス・メニーナス』(女官たち)
フェリぺ4世の王女マルガリータを中心に侍女、当時の宮廷に仕えていた矮人(わいじん)などが描かれ、画面向かって左には巨大なキャンバスの前でまさに制作中のベラスケス自身の姿が誇らしげに描かれている。中心の王女マルガリータを含め、画中の人物は鑑賞者の方へ視線を向けており、何かに気付いて一瞬、動作を止めたようなポーズで描かれている。その「何か」は画面奥の壁に描き表された鏡に暗示されている。この小さな鏡にぼんやりと映るのは国王フェリぺ4世夫妻の姿であり、この絵の鑑賞者の位置に立って画中の人物たちを眺めているのは実は国王その人である。この絵は、国王の夏の執務所の私室に掛けられていたという。画中のベラスケスの黒い衣服の胸には赤い十字の紋章が描かれている。これは、サンティアーゴ騎士団の紋章で、ベラスケスが国王の特段のはからいで同騎士団への加入を果たし、貴族に列した1659年(死の前年)に描き加えられたものである。
[編集] 関連項目