モンテネグロ
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- モンテネグロ共和国
- Republika Crna Gora
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(国旗) (国章) - 国の標語 : 無し
- 国歌 : Oj, svijetla majska zoro
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公用語 セルビア語(モンテネグロ語とも称される,文字はキリル文字ではなくラテン文字を使用) 首都 ポドゴリツァ 最大の都市 ポドゴリツァ 大統領 フィリップ・ヴヤノヴィッチ 首相 ジェリコ・シュトラノビッチ 面積
- 総計
- 水面積率世界第位
13,812km²
極僅か人口
- 総計(2003年)
- 人口密度世界第155位
616,258人
48.7人/km²GDP(自国通貨表示)
- 合計(Xxxx年)
xxx,xxxユーロGDP(MER)
- 合計(Xxxx年)世界第xx位
xxx,xxxドルGDP(PPP)
- 合計(2005年)
- 1人当り世界第位
19.1億ドル
3,100ドル独立宣言 2006年6月3日 通貨 ユーロ(EUR) 時間帯 UTC +1(DST: +2) ccTLD YU (MEに変更予定) 国際電話番号 381
モンテネグロ共和国(Република Црна Гора)、通称モンテネグロは、ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する国。セルビア・モンテネグロ(旧ユーゴスラビア連邦共和国)を構成する2つの共和国のうちのひとつであったが2006年6月3日に独立を宣言した。首都はポドゴリツァ(旧称チトーグラード)。
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[編集] 国名
自国ではツルナ・ゴーラ(Црна Гора, Crna Gora, 黒い山)と呼ぶ。モンテネグロ (Montenegro)とはイタリア語ヴェネツィア方言(あるいはヴェネト語)による名称(意味は「黒い山」)。
自国での正式国名は、ツルナ・ゴーラ共和国(Република Црна Гора, Republika Crna Gora)。
公式の英語表記は、Republic of Montenegro。
日本語の表記は、モンテネグロ共和国。通称、モンテネグロ。
[編集] 歴史
詳細はモンテネグロの歴史参照
言語的、文化的にはセルビア人との違いはほとんど無く、宗教も同じ東方正教会(ただしセルビアで主流のセルビア正教会の他に、マケドニア正教会が存在する)であるが、セルビア正教会に併合されたモンテネグロ正教会の独立を求めている1990年代後半から経済的・政治的利害の相違、セルビア人中心の国家運営に対する不満などから独立運動が盛んになると自分をセルビア人とは別個のモンテネグロ人と考える人が増えつつある。これには、古代モンテネグロ人の祖先が、南スラブ人とは別個のイリュリア人であった可能性も背景にある。
1516年にツェティニェ家による神政政治が確立した。これがモンテネグロが独自に持った最初の国家形態である。ツェティニェ家はその神政政治と言う性格から叔父から甥へと主教座が継承され、オスマン帝国のスルタンに朝貢を続けながら国家を存続させた。ツェティニェ家は1852年に世俗的な公へと転化。モンテネグロ公国が成立した。一方これを契機として宗主国オスマンと武力衝突に発展。ロシア帝国の支援を仰ぐことになった。
1878年、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約、ベルリン条約でオスマン帝国からの完全な独立を承認された。初代君主はニコラ1世で、1918年までその地位にあった。ロシアとの関係の強さから、日露戦争には、日本に宣戦布告している。[1]
第一次世界大戦では、セルビアに対していくらかの援助を行った。このためにモンテネグロはオーストリア・ハンガリー帝国に占領されることになり、公はフランスへと亡命した。その後モンテネグロを解放したセルビア軍によって占領され1918年に成立したセルビア・クロアチア・スロベニア王国(のちユーゴスラビア王国)に取り込まれた。以後はユーゴスラビアの中の一地域となった。
ユーゴスラビア解体の動きの中でもセルビアと歩調を合わせてきたが、1997年の選挙でミロ・ジュカノヴィッチが大統領に就任した頃から、分離独立の示唆が行われて来ていた。1999年のコソボ紛争でも、セルビアの行動を非難し、アルバニア難民の受け入れに努めた。コソボ紛争後、通貨、関税に関してセルビアから独立し、徐々に独立の外堀が埋められていった。
これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定に必ずしも好影響を及ぼさないという立場から、モンテネグロとセルビアの仲介に動き出した。こうした欧州連合の努力により、2003年2月には3年後の2006年以降に分離独立の賛否を決める国民投票を実施できると言う条件付で国家連合セルビア・モンテネグロが成立した。新国家はセルビア・モンテネグロ内で圧倒的にマイノリティーであるモンテネグロに対してセルビアとの間に最大限の平等を保障した、それでもモンテネグロは共同国家の運営に対して非協力的であり、モンテネグロ独自の外交機関、軍事指揮系統を有していた。国家としてのセルビア・モンテネグロはほぼ有名無実の状態になっていた。
2006年5月21日に、セルビアからの分離独立の可否を問う国民投票が実施された。欧州連合は、セルビア・モンテネグロでなければ欧州連合への加盟は認めないと言う立場をとっていたが、投票の直前には「50%以上の投票率と55%以上の賛成」と言うハードルに摩り替えた。一方で独立支持派は「モンテネグロの独立こそが欧州連合加盟への早道」であるとするキャンペーンを展開した。投票の結果、投票率86.5%、賛成55.5%で欧州連合の示した条件をクリアした。
2006年6月3日夜(日本時間4日未明)に独立賛成派が国民投票の結果に基づき独立を宣言した。6月5日にはセルビアもセルビア・モンテネグロの継承を宣言して、モンテネグロの独立を追認した。6月12日には欧州連合がモンテネグロの国家承認を行った。これにより国際的にもモンテネグロの独立が認められた。両国の独立により6つの共和国から構成されていた旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は完全に解体した事になる。6月28日には国際連合に加盟を果たした。
現大統領はフィリップ・ヴヤノヴィッチ、現首相はミロ・ジュカノヴィッチ元大統領のあとを継いだジェリコ・シュトラノビッチ。
[編集] 地方行政区分
モンテネグロは21の市によって構成されている。
[編集] 地理
北西部でクロアチア(ドゥブロヴニク)・ボスニア・ヘルツェゴビナ、東部でセルビア、南部でアルバニアと国境を接している。西部がアドリア海に面している。
[編集] 主な都市
[編集] 経済
通貨は2006年の国家としての独立以前からセルビアから独立していた。1999年11月3日からそれまでのセルビア・ディナールに変わって、ドイツマルクの流通が合法化された。その後2002年にドイツマルクの流通が完全に停止されてからは、独立後の現在に至るまでユーロが流通している。
関税もセルビアと異なっており、セルビアとのボーダーラインには独立以前から税関が設けられていた。世界貿易機関(WTO)にも、以前からセルビアとモンテネグロで個別に加盟交渉を行っている。
[編集] 国民
2003年の国勢調査(セルビアとは別に実施)によると、民族構成はモンテネグロ人が43.16%、セルビア人が31.99%、ボシュニャク人が7.77%、アルバニア人が5.03%、ムスリムが3.97%、クロアチア人が1.1%、ロマもしくはエジプト人と答えた人が0.46%であった。
なおここでの「エジプト人」とは自らのルーツがエジプトにあると言う信念から、エジプト人であると主張するユーゴスラビア固有の民族集団のひとつである。エジプトにはエジプト人と言う民族集団は存在しない。エジプトを構成する最多の民族集団はアラブ人である。
モンテネグロの公用語はセルビア語のモンテネグロ方言であり、63.5%が自らの母語をセルビア語であると宣言しているが、約22%がセルビア語と方言程度の違いのあるモンテネグロ語を母語としていると答えている。
宗教は、74%が東方正教会、イスラム教が17.74%、となっている。
[編集] 文化
[編集] リファレンス
- ^ 日本政府は、2006年に提出された衆議院議員鈴木宗男の質問書に対する答弁書において「千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。」としており、モンテネグロと日本が国際法の上で戦争状態になったことはないと認識している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 公式
[編集] その他
- 世界の国々 > ヨーロッパ
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