ハンコック (空母)
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艦歴 | |
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起工: | 1943年1月26日 |
進水: | 1944年1月24日 |
就役: | 1944年4月15日/1954年2月15日/1956年11月15日 |
退役: | 1947年5月9日/1956年4月13日/1976年1月30日 |
その後: | 1976年9月1日にスクラップとして売却 |
除籍: | |
性能諸元 | |
排水量: | 27,100 トン |
全長: | 888 ft ( m) |
艦幅: | 93 ft (28.4 m) |
全幅: | 147.5 ft (45 m) |
吃水: | 28.7 ft (8.8 m) |
機関: | ウェスティングハウス製蒸気タービン4機, 4軸推進, 150,000 shp |
最大速: | 33 ノット (61 km/h) |
乗員: | 士官、兵員3,448名 |
兵装: | 5インチ(127 mm)砲12基 56口径40mm機銃8基 78口径20mm機銃46基 |
艦載機: | 90 - 100 |
ハンコック(USS Hancock, CV-19)は、アメリカ海軍の航空母艦。タイコンデロガ級航空母艦の3番艦。艦名はジョン・ハンコックに因む。その名を持つ艦としては4隻目。
ハンコックはマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール株式会社で「タイコンデロガ」として1943年1月26日に起工するが、5月1日に「ハンコック」に改名される。1944年1月24日にデウィット・C・ラムゼイ夫人(航空局長ラムゼイ少将の妻)によって命名、進水する。1944年4月15日にフレッド・C・ディッキー艦長の指揮下就役した。
ボストン海軍造船所で調整後トリニダードとベネズエラ沖で訓練航海を行い、7月9日にはボストンに帰港する。7月31日にボストンを出港、パナマ運河とサンディエゴ経由で真珠湾に向かう。真珠湾を9月24日に出港し、10月5日にウルシー環礁でハルゼー提督の第三艦隊に合流する。ハンコックはボーガン少将の第38.2任務部隊に配属された。
目次 |
[編集] 第二次世界大戦
ハンコックは沖縄、台湾、フィリピンの日本軍基地を攻撃するために集結していたミッチャー中将率いる第38高速空母機動部隊に、マリアナ諸島西方375マイルの地点で合流する。日本海軍の航空戦力はマッカーサーのレイテ上陸当時麻痺状態にあった。艦隊が1944年10月10日に沖縄沖に到着したとき、ハンコックの艦載機は沖縄の離着陸場と輸送部隊に攻撃を加えるため発艦した。攻撃機は7機の敵航空機を破壊し、潜水艦母艦、12台の魚雷艇、2台の小型潜水艇、4台の貨物船といくつかの小舟の破壊を支援した。10月12日には台湾の日本軍基地で6機を撃墜、地上で9機を破壊した。また、貨物船一隻を撃沈、三隻を破壊している。
戦艦ミズーリ(USS Missouri, BB-63)の艦上で日本の降伏調印式が行われたとき、ハンコックの艦載機は上空を飛行した。ハンコックは東京湾に1945年9月10日入港し、9月30日に出港、途中沖縄で1,500名を乗艦させカリフォルニア州サン・ペドロに向かい10月21日に到着した。ハンコックはサン・ペドロでマジック・カーペット作戦に参加し、シドラ湾、マヌス州、アドミラルティ諸島に向けて11月2日へ出航した。帰路においては4,000名を乗艦させ、12月4日にサンディエゴに到着する。一週間後に二度目の輸送任務に着手し、3,773名をマニラで乗艦させカリフォルニア州アラミダに1946年1月20日に到着した。サンディエゴで2月18日に第7航空団を乗艦させると、カリフォルニア沖で作戦任務に従事する。サンディエゴを3月11日出港、二個航空団のパイロットを真珠湾で乗艦させサイパンに向かい4月1日に到着する。サイパンで別の二個航空団のパイロットを乗艦させ、グアムで航空機の貨物を積む込むと真珠湾からアラミダに向けて出港し、4月23日に到着している。その後ワシントン州シアトルに向かい不活性化に向けて待機する。ハンコックはワシントン州ブレマートンで予備役艦隊入りした。
[編集] 戦後
ハンコックは1951年12月15日にワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍工廠で攻撃空母への改修、近代化が行われ1952年10月1日に CVA-19 に艦種変更される。1954年2月15日にW・S・バッツ艦長の指揮下再就役した。ハンコックはジェット戦闘機を発艦させることができる蒸気カタパルトを備えた初のアメリカ空母となった。
1954年5月7日にサンディエゴを出港し、カリフォルニア沖で作戦活動に入る。6月17日には蒸気カタパルトを用いた史上初のジェット戦闘機発艦を行っている。1955年8月10日に第七艦隊の一部として沖縄からフィリピンにかけての海域で作戦活動を行い、スパロー、レギュラスミサイルの発射実験及びカットラスの運用実験を行った。1956年3月15日にサンディエゴに帰還し4月13日に退役、アングルド・デッキ装着の改修に入る。
ハンコックは1956年11月15日に再就役し、サンディエゴ沖で1957年4月6日まで訓練を行う。その後極東、ハワイに向けて出港し、1957年9月18日にサンディエゴに帰還、1958年2月15日に再び日本に向けて出港する。1958年8月の第二次台湾海峡危機では強力な空母機動部隊の一部として警戒を行った。10月2日にサンディエゴに帰還し、サンフランシスコ海軍造船所でオーバーホールに入る。オーバーホール後はサンディエゴで訓練任務に従事、その後1959年8月1日に再び第七艦隊に加わり、ラオス問題で東南アジア水域でのアメリカ軍の存在を誇示した。1960年1月18日にサンフランシスコに帰還し2月初めに出港、月からの極超短波を受信する通信実験に参加した。8月には第七艦隊と共にラオス沖に展開し、同水域の緊張が緩和するまで日本からフィリピンにかけての範囲で作戦活動に従事する。
ハンコックは1961年3月にサンフランシスコへ戻り、続いてピュージェット・サウンド海軍工廠でオーバーホールを行い新型電子機器の装備及び多くの改修を行った。その後1962年2月2日に再び極東へ出航、ラオスと南ベトナムでの危機が増大すると南シナ海でのパトロールを行った。6月には金門島と馬祖島に向かい、その後日本沿岸で訓練活動を行う。1962年10月7日にサンフランシスコに帰還し、ハワイへの短期間の航海の後1963年6月7日に再び極東へ出航した。
ハンコックは韓国沿岸での防衛演習に参加した後、1963年11月に南ベトナムでクーデターが生じると沖合に展開した。その後1964年1月16日にハンターズ・ポイント海軍造船所入りして新型射撃システム、船体補修、アルミ製の飛行甲板を装着する近代化改修を行う。1964年6月2日に艦歴20周年をサンディエゴで祝った。その後ハワイへの訓練航海を行い、1964年10月21日にアラミダを出航して第七艦隊に加わり作戦行動に入る。
ハンコックは11月19日に日本に到着した後に、トンキン湾のヤンキー・ステーションでのパトロールを行った。1965年春の初めに帰還するまでベトナム水域で作戦活動に従事する。
11月に再び交戦地帯へ向かう。12月16日にベトナム沖でパトロールを行い、その後1966年8月1日にアラミダに帰還するまで香港、フィリピン、日本から艦載機による敵基地攻撃を行っている。この間の功績により海軍部隊栄誉章を受章している。
西海岸沖での作戦行動後、ハンコックは1967年初めにベトナムへ戻り北ベトナム軍への攻撃を再開した。1967年前半の作戦活動後、7月22日にアラミダに戻り速やかに戦闘に戻るための準備を行う。
ハンコックとレンジャー、オリスカニーの艦載機は、1970年11月21日、22日に非武装のアメリカ軍偵察機が攻撃されたことを受けて、19度線以南の北ベトナム軍対空、ミサイル陣地への攻撃を行った。ハンコックとレンジャー、キティホークは1971年5月10日までヤンキー・ステーションに留まりミッドウェイと交代した。
ハンコックはコーラル・シーと共に、北ベトナム軍が南ベトナムに侵入した1972年3月30日までにヤンキー・ステーションに帰還していた。北ベトナム軍の侵攻に応じてハンコックと僚艦の艦載機はオペレーション・フリーダム・トレインに参加し北ベトナムの軍事目標に対する攻撃を行った。攻撃は4月末までに北緯20°25'以南の地域をカバーし、4月25日から30日までハンコックの艦載部隊 VA-55、VA-164、VA-211 の所属機はコントムとプレイクの周辺地域に対して攻撃を行った。
ハンコックは1975年に再び南ベトナム水域に展開した。スービック海軍基地を3月23日出港し、ハンコックはコーラル・シー、ミッドウェイ、エンタープライズおよびオキナワと共に北ベトナムの進攻を受けたサイゴンから避難民を救助した。アメリカ人1,373名、他国人6,422名を救援した。5月12日から14日にかけて、マヤグエース号事件への対応のため待機状態にあった。
ハンコックは1976年1月30日に退役した。その翌日除籍され、1976年9月1日に防衛再利用マーケティングサービス(Defense Reutilization and Marketing Service, DRMS)によってスクラップとして売却された。
ハンコックは第二次世界大戦中の戦功で海軍部隊栄誉章と四つの従軍星章を受章した。