ランドルフ (空母)
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艦歴 | |
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起工: | 1943年5月10日 |
進水: | 1944年6月28日 |
就役: | 1944年10月9日/1953年7月1日 |
退役: | 1948年2月25日/1969年2月13日 |
その後: | 1975年に廃棄 |
除籍: | 1973年6月1日 |
性能諸元 | |
排水量: | 27,100 トン |
全長: | 888 ft ( m) |
艦幅: | 93 ft (28.4 m) |
全幅: | 147.5 ft (45 m) |
吃水: | 28.7 ft (8.8 m) |
機関: | ウェスティングハウス製蒸気タービン4機, 4軸推進, 150,000 shp |
最大速: | 33 ノット (61 km/h) |
乗員: | 士官、兵員3,448名 |
兵装: | 5インチ(127 mm)砲12基 |
艦載機: | 90 - 100 |
ランドルフ(USS Randolph, CV/CVA/CVS-15)は、アメリカ海軍の航空母艦。タイコンデロガ級航空母艦の2番艦。艦名はペイトン・ランドルフに因む。その名を持つ艦としては二隻目。
ランドルフは1943年5月10日、バージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船 & 乾ドック社で起工する。1944年6月28日、ローズ・ジレット(アイオワ州選出上院議員ガイ・M・ジレットの妻)によって命名、進水し、1944年10月9日、フェリックス・ロック・ベイカー艦長の指揮下就役する。
目次 |
[編集] 第二次世界大戦
整調航海はトリニダードからパナマ運河を通って太平洋に向けて行われた。12月31日サンフランシスコに到着、87航空部隊から12航空部隊に転属され、4ヶ月の作戦行動に入る。
ランドルフは1945年1月20日にサンフランシスコを出港した。ウルシー環礁に到着すると2月10日に第58機動部隊に配属される。ランドルフは東京飛行場および日立航空機立川発動機製作所に対して2月16日、17日に攻撃を行った。18日には父島への攻撃を行う。2月20日には硫黄島上陸部隊への支援攻撃および母島上陸部隊への二度の支援攻撃を行う。続く4日にわたり硫黄島への攻撃と偵察を継続した。2月25日には関東地区の飛行場への三度の攻撃と八丈島への攻撃を行い、その後ウルシー泊地へ帰投した。
ウルシー泊地へ停泊中の3月11日、九州の鹿屋基地から発進した梓特別攻撃隊の銀河が飛行甲板後部に突入、25名が死亡し106名が負傷した。ウルシーでの修復後、ランドルフは4月7日に沖縄攻略部隊に参加する。沖縄本島、伊江島、加計呂麻島に対する航空偵察は4月14日まで毎日続けられ、15日から沖縄に対する戦闘機、爆撃機および雷撃機の攻撃支援、九州南部の飛行場への攻撃を行った。4月17日から月末までランドルフは攻撃及び偵察支援に艦載機を投入した。
5月に入るとランドルフの艦載機は沖縄および九州南部、喜界島、奄美大島の海軍基地、飛行場への攻撃を行う。5月15日には第58機動部隊の旗艦となり沖縄本島への攻撃任務を継続した後、5月29日にはグアム経由でフィリピンへ帰還した。
ランドルフの次の任務はハルゼー提督率いる第三艦隊の一部として、本州への攻撃を行うことであった。搭載部隊は第12航空団から第16航空団となり、7月10日には関東地区の飛行場に8度の攻撃を行う。7月14日には津軽海峡で船舶及び飛行場に対する攻撃を行う。この攻撃で二隻の青函連絡船が撃沈され、三隻が大破した。本州への攻撃はその後数日間継続された。7月18日には横須賀海軍基地の桟橋に艤装されて停泊していた戦艦長門への攻撃を行っている。
その後ランドルフは僚艦と共に南西方面、四国沖に移動、7月24日には瀬戸内海で船舶への攻撃を行い、航空戦艦日向へ打撃を与えると共に九州、本州、四国の飛行場、軍需施設への攻撃も行った。7月10日から25日まででランドルフの艦載機は小さな帆掛け船から6,000トン級の海防艦まで25から30隻の艦船を破壊し、35から40隻に損傷を与えたと見積もられる。ランドルフの艦載機はその後も攻撃を継続し、日本降伏当日の8月15日は午前中に木更津飛行場および周辺施設へ攻撃を行った。
[編集] 戦後
戦争の終了に従ってランドルフは本国へ帰還する。9月末にパナマ運河を通過し、ノーフォークには10月15日に到着した。その後マジック・カーペット作戦に参加、年末まで地中海への二度の航海を行う。1946年に入るとランドルフは予備役兵と海軍兵学校生のための練習艦となり、同年後半に地中海への巡航を行う。その後カリブ海へ航海を行い、1947年の夏には海軍兵学校生を乗せ北ヨーロッパへ航海を行う。ランドルフは1948年2月25日に予備役となりフィラデルフィアで停泊した。
ランドルフは1952年10月1日にCVA-15に艦種変更され、1953年7月1日再就役する。グアンタナモ湾での第10空母航空団との整調航海後、ランドルフは第14空母航空団を乗艦させ地中海へ向けてノーフォークを出港、1954年2月3日に第6艦隊に加わる。六ヶ月間にわたる地中海での活動期間に、ランドルフはNATOの各種演習に参加、その後1955年6月18日にノーフォーク海軍工廠入りし、アングルド・デッキ化を含む種々の近代化を行う。
1956年1月に近代化改修が完了すると、ランドルフは続く六ヶ月にわたって東海岸沖で作戦活動に従事した。ランドルフは飛行甲板からレギュラス誘導ミサイルを発射した初の大西洋艦隊所属空母であった。
1956年7月14日にランドルフは再び地中海へ向けて出航し第六艦隊に合流、7ヶ月間の作戦行動に入る。10月29日にイスラエル軍がシナイ半島へ侵攻(第二次中東戦争)したが、ランドルフは戦闘態勢で待機した。ランドルフの艦載機はスエズ運河付近で作戦行動に入り、アレキサンドリアからのアメリカ市民の退去に際して対地および対空偵察と援護を行った。1957年2月19日には本国へ帰還する。
数ヶ月間アメリカ東海岸で活動した後、ランドルフは1957年7月1日に地中海へ再び展開した。8月から12月の間にシリアでの政治的混乱が中東情勢を混乱させるおそれがあったため、ランドルフは地中海東部のパトロールを行った。1958年2月24日に本国へ帰還したが、再び地中海へ赴き9月2日から1959年3月12日まで5度目の配備が行われた。
ランドルフは1959年3月31日に CVS-15 に艦種変更される。その後東海岸で対潜水艦作戦活動を翌年まで指揮し、1960年9月には4度目の Battle Efficiency Award を受賞した。その後ノーフォークでオーバーホールを受け、カリブ海で作戦活動を行った後、アメリカ合衆国が行った二度目の有人宇宙飛行の回収船となり、ガス・グリソムの救援に貢献した。1962年2月、ランドルフは宇宙飛行士ジョン・グレンの一時回収船に指定された。歴史的な宇宙飛行の後、グレンは駆逐艦ノア(USS Noa, DD-841)の近くに無事着水し、ヘリコプターでランドルフに回収された。
1962年の夏にランドルフは再び地中海へ向けて出航した。西大西洋に到着すると同時にキューバ危機が発生し、ランドルフはカリブ海に帰還、10月末から11月にかけて作戦活動を行う。その後ノーフォークでオーバーホールを受け、ランドルフは大西洋での任務を再開した。続く5年の間に二度の地中海巡航と北ヨーロッパ巡航を行い、その後はアメリカ東海岸とカリブ海での活動を行った。
1968年8月7日に国防総省はランドルフを含む49隻の艦艇をモスボール処理すると発表した。ランドルフは予備役となり、1969年2月13日にフィラデルフィアで係留された。1973年6月1日まで同所に保管された後除籍され、1975年5月にスクラップとして売却された。
ランドルフは第二次世界大戦の戦功により3つの従軍星章を受章した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- A website for USS Randolph - contains photographs and historical documents regarding the ship and her crew
- Azusa special attack unit - story of kamikaze unit that hit Randolph at Ulithi
- Another account of the March 11, 1945 kamikaze attack on Randolph at Ulithi.