パトリス・マクマオン
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パトリス・マクマオン(Marie Edmé Patrice Maurice MacMahon, 1808年7月13日 - 1893年10月16日)は、フランスの軍人。フランス第三共和政で大統領(在職1873年~1879年)をつとめた。祖先はアイルランド系で、欧州大陸の国家元首となった唯一のアイルランド系人物である。
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[編集] 初期の経歴
ブルゴーニュのソーヌ・エ・ロワール県シュリー(オタンの近く)で生まれた。17人兄弟の16番目だった。祖先はイングランド王ジェームズ2世の時代にアイルランドのリムリック州(もともとはクレール州出身)からフランスに移住し、1749年に帰化した。フランス人貴族女性と結婚した祖父はルイ15世によって伯爵に叙任され、その家族は徹底的に王党派の傾向があった。パトリス・マクマオンはルイ大王大学とサンシール陸軍士官学校で学び、1827年に卒業した。
[編集] 軍人としての経歴
陸軍ではアシャール将軍の副官を勤め、1830年のアルジェリア征服戦争に参加した。1834年から1854年までアルジェリアに在勤し、1837年のコンスタンティン攻撃で負傷した。1843年にはフランス外人部隊司令官となり、1852年少将に昇進した。クリミア戦争では1855年9月8日の総攻撃に際してセバストーポリのマラコフの戦いで傑出した功績を立て、フランス陸軍最高のポストに内定したが、謝絶してアルジェリアに戻ることを選択した。 1856年にはフランンス上院議員に任命されている。
ナポレオン3世がイタリア統一戦争に介入した戦役では第2軍団司令官としてオーストリアと戦い1859年6月4日のマジェンタの戦いでフランスの勝利を決めた。このため後にナポレオン3世によってマジェンタ公爵を贈られている。1864年9月1日からアルジェリア総督となり、1870年の普仏戦争が勃発するとアルザス軍を率いて戦った。
[編集] 大統領職
しかし同年7月のセダンの戦いで仏軍は大敗し、ナポレオン3世自身も捕虜となったため、9月4日臨時国防政府が成立し、第三共和政を宣言した。臨時政府は1871年1月28日、対独講和を行い、ボルドーで国民議会を開催してアドルフ・ティエールを大統領とする共和制政府を樹立した。対独講和に反対するパリ市民はパリ・コミューンを成立させたが、ヴェルサイユに拠点を置いた新政府はパリ・コミューン弾圧に乗り出した。マクマオンはこのヴェルサイユ政府の総司令官としてパリ・コミューンを鎮圧し、第三共和国の大立者となり、1873年ティエール辞職後大統領に選出された。1870年代のフランス第3共和国では政体を王制にするか共和制にするかで深刻な対立が続き、根っからの王制主義者であったマクマオンはその後、国民議会で共和派が台頭すると軋轢が増え、7年の任期を待たず1879年に辞職した。
[編集] 死去
1893年10月8日ラ・フォレスト城で死去し、10月22日国葬の礼を以ってオテル・デ・ザンヴァリッドの地下聖堂に埋葬された。
[編集] 外部リンク
- アイルランドから見たマクマオン(英語)
- 伝記と写真(フランス語)
前大統領: アドルフ・ティエール |
フランス大統領 1873 - 1879 |
次大統領: ジュール・グレヴィー |