フランス第三共和政
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フランスにおける第三共和政(だいさんきょうわせい, Troisième République)は、普仏戦争の前後に成立し、1940年のナチス・ドイツによるパリ占領まで存続した政体である。
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第二共和政 (1848–1852) |
第二帝政 (1852–1870) |
第三共和政 (1870–1940) |
ヴィシー政権 (1940–1944) |
臨時政府 (1944–1946) |
第四共和政 (1946–1958) |
第五共和政 (1958– ) |
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目次 |
[編集] 歴史
[編集] 普仏戦争とパリ・コミューン
普仏戦争中の1870年9月2日、ナポレオン3世はセダン(スダン)で捕らえられて捕虜となった。これを受けてパリで蜂起が発生し、9月4日にトロシュ将軍を首班として国防政府(臨時政府)が成立した。国防政府はドイツとの戦争を継続する姿勢をとっていたが、1871年1月末には敗勢濃厚となる中でドイツとの講和を模索した。国民議会選挙が1871年2月に行われ、ボルドーで国民議会が開催されると、ティエールが新政府の指導者となり、2月26日にドイツに対してアルザス・ロレーヌの割譲と50億フランの賠償支払いを認めた。(1871年5月のフランクフルト講和条約で正式に確認された。)
こうした政府の弱腰な姿勢と、3月にドイツ軍がパリを占領したことは、パリ市民の憤激を招いた。そして、ついに武装解除を図る新政府と衝突し、独自の議会選挙を行ってパリ・コミューンの成立が宣言された。コミューンの政策には労働条件の改善など社会政策的な要素が含まれており、晩年のカール・マルクスなどがこれを高く評価したが、実際には「社会主義政権」と評価できるほどの政策もさほど見られず、あまりにも統治期間が短すぎた。また、内部対立を収拾することもできず、5月には新政府によって鎮圧された。この際、コミューン参加者の多くが処刑された。
パリ・コミューンの鎮圧は、多くのフランス国民にとっては政治的安定をもたらすものとして受け入れられた。8月にティエールは大統領に就任するが、まだこの段階でも王政復古を主張する勢力も存在し、政体の行方は定まらなかった。ティエール本人は共和政を支持したが、この姿勢を鮮明にすると王党派が離反し、1873年に国民議会によってティエールは大統領職から解任された。こうして新たに大統領になったマクマオン、首相のブロイ公ともに王党派の立場をとっていたが、議会では共和派が勢力を伸ばしており王政復古を牽制していた。
[編集] 第三共和国憲法の成立
1875年に憲法が制定され、上院(元老院)と下院(代議院、普通選挙による)による二院制がとられた。また、共和国大統領が両院による多数決で選出されることが定められた。1876年1月に第三共和国憲法に従い選挙が行われると、上院では王党派、下院では共和派が優勢になった。こうした中、王党派の立場をとる大統領のマクマオンは、穏健共和派を首相に選ばざるをえなかった。その後、大統領と下院の対立が深まると議会を解散させて再選挙を実施したが、共和派の勢力が衰えることはなかった。こうして、1879年にマクマオンが大統領の座を退くと、共和派のジュール・グレヴィが大統領に就任した。これ以降、言論・出版の自由が保障されたほか、政教分離が進むなど自由主義的諸改革が進展する一方、共和政の象徴としてマリアンヌ像が公舎に描かれるなど、国民の間に共和政の理念を普及させる試みも推進された。
[編集] 植民地拡大とフランス外交
ビスマルク外交下でフランスが国際的孤立に置かれる中、フランスは各地への植民地拡大を推進させた。このことは、普仏戦争の敗北で傷つけられた国民感情を癒し、国威発揚につながる面もあった。また、ドイツのビスマルクとしても、フランスの軍事力がドイツへの復讐でなく植民地拡大にむかうことは歓迎できることだった。しかし、左派は軍事費の増大とそれに伴う国民への負担増、右派は対ドイツ消極外交と関連づけて、こうした植民地拡大政策を批判した。
フランスの植民地拡大は、主にアフリカとインドシナで進められた。アフリカではチュニジアを事実上保護国化し、セネガルやコンゴにも進出したほか、マダガスカル島の港湾都市を確保した。インドシナへの侵略は既にナポレオン3世の時代から始まっていたが、1883年・1884年には阮朝越南国にユエ条約を認めさせ、ベトナムの保護国化を図った。これに対し宗主権を訴えた清を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清のベトナムに対する宗主権を否定させた。その後、1887年にカンボジアとあわせてフランス領インドシナ連邦を成立させ、1893年にはラオスもあわせその領域を拡大させた。また、19世紀末には中国分割が本格化する中で広州湾付近に勢力を伸張させた。
セネガルからジブチまでアフリカを縦断するように拠点を広げていたフランスは、エジプトからケープ植民地を結ぶことを意図していたイギリスと不可避的に対立を深めることになった。両者の対立は、1898年にスーダンで両国軍が対峙したファショダ事件で頂点に達するが、当時の新外相テオフィル・デルカッセが、イギリスとの対立よりドイツへの警戒を優先させ、イギリスに対して妥協的姿勢をみせた。これにより両国関係は好転し、徐々に対ドイツ政策などで協調をみせるようになった。
[編集] 軍部の台頭と共和主義の危機
[編集] ベル・エポック
[編集] 第一次世界大戦
[編集] 戦間期
1918年11月、第一次世界大戦は多大なる犠牲をともなって終結した。国土の多くが戦場となったフランスでは100万人以上の死者がでており、国民の対独復讐心は極めて強いものになっていた。 1919年1月より、パリで第一次世界大戦の講和会議が始められた(パリ講和会議)。フランス代表のクレマンソーはドイツに対する強硬姿勢を崩さず、6月末に調印されたヴェルサイユ条約は対独制裁的なものであった。こうした対独姿勢は続き、1923年にはドイツの賠償金支払いを口実として、ドイツ有数の工業地域であるルール地方に対して、ベルギーとともに軍事占領を決行した。しかし、この試みはドイツの反仏感情を高めただけで、フランスに実際の経済的利益をもたらしたわけではなかった。
1924年にエリオ急進社会党内閣が成立すると、対独姿勢に変化がみられるようになった。同年にはアメリカ合衆国の提示したドーズ案によってドイツの賠償金支払いにも道筋が示され、ヨーロッパは相対的に安定した時期へと突入した。フランス外相のブリアンはドイツと協調外交を展開し、25年にはルール撤退を完了させた。
1929年にアメリカ合衆国で起こった株価の大暴落が引き金となり、ヨーロッパ各国にまで不況が広がった。いわゆる世界恐慌である。このことがドイツにおけるファシズム政権の成立を引き起こし、フランスは深刻な安全保障上の危機を迎えることになった。東欧諸国との関係強化や、1935年の仏ソ相互援助条約の成立は、ドイツを東西から挟み牽制を図ったものである。
1936年5月の選挙で人民戦線が圧勝し、社会党のレオン・ブルムを首相として、第1次ブルム人民戦線内閣(社会党、急進社会党、共産党(閣外協力))が成立した。しかし、同年に勃発したスペイン内戦への対応をめぐり内部で対立が先鋭化した。8月に不干渉の方針を示すが、これに対して共産党は不満を強めた。この後も人民戦線内部では対立が絶えず、1938年には人民戦線が崩壊した。一方、4月に成立していたダラディエ内閣は、9月のミュンヘン会談でもイギリスに同調してヒトラーのズデーテン地方併合を容認するなど宥和政策をとっていた。翌1939年1月には、スペインのフランコ政権を容認した。こうした一連の政策はソ連の仏英不信を強めさせ、8月の独ソ不可侵条約を招くことになった。9月には第二次世界大戦が勃発し、翌1940年6月にはナチスの軍勢がパリを再び占領した。
[編集] 終焉
第二次世界大戦では独軍のパリ占領を許し、事実上の傀儡政権であるヴィシー政権を生み出して幕を閉じた。
[編集] 主要年表
- 1870年
- 9月4日 臨時国防政府樹立
- 1871年
- 1873年 ティエール辞任、パトリス・マクマオン大統領選出
- 1875年 制憲立法成立
- 1877年 普通選挙で共和派勝利
- 1879年 グレヴィー、大統領に選出
- 1881年 チュニジア保護領成立
- 1884年 労働組合法成立
- 1885年 ベルリン会議
- 1887年 プジョー最初の自動車生産
- 1892年 露仏軍事同盟締結
- 1894年 ドレフュス事件
- 1904年 英仏協商成立
- 1905年 第一次モロッコ事件(タンジール事件)
- 1909年 航空機による英仏海峡横断
- 1910年 仏領赤道アフリカ成立
- 1911年 第一次モロッコ事件(アガディール事件)
- 1912年 モロッコ保護領成立
- 1913年 3年徴兵制成立
- 1914年 第一次世界大戦勃発
- 1917年
- 4月 米国参戦
- 10月 ロシアのボルシェビキ革命
- 1918年 停戦実現
- 1919年 ヴェルサイユ条約
- 1923年 ルール占領
- 1925年 ロカルノ条約
- 1931年 植民地博覧会
- 1933年 スタヴィスキー事件
- 1934年 パリで大暴動。ダラディエ内閣(第2次)総辞職
- 1936年 レオン・ブルム人民戦線内閣成立
- 1938年 ダラディエ内閣(第3次)成立
- 1939年 第二次世界大戦勃発
- 1940年
- 6月17日 ヴィシー政権成立、第三共和政の終焉
- 7月22日 独仏停戦協定成立