ピエルカルロ・ギンザーニ
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F1での経歴 | |
国籍 | イタリア |
活動年数 | 1981, 1983 - 1989 |
所属チーム | オゼッラ, トールマン, リジェ,ザクスピード |
出走回数 | 111戦(77戦) |
タイトル | |
優勝回数 | {{{優勝回数}}} |
通算獲得ポイント | 2 |
表彰台(3位以内)回数 | {{{表彰台回数}}} |
ポールポジション | {{{ポールポジション}}} |
ファステストラップ | {{{ファステストラップ}}} |
F1デビュー戦 | 1981年モナコGP |
初勝利 | |
最終勝利 | |
最終戦 | 1989年オーストラリアGP |
ピエルカルロ・ギンザーニ(Piercarlo GHINZANI、1952年1月16日)は、イタリア出身のレーシングドライバーで元F1ドライバー。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] ヨーロッパF3チャンピオン
FF1600などのジュニアフォーミュラを経てイタリアF3選手権に参戦し、その後1977年にはヨーロッパF3選手権のチャンピオンになる。その後1979年にイタリアF3選手権のチャンピオンも獲得する。
[編集] F1
[編集] 1981年-1984年
その後1981年の第5戦ベルギーグランプリに、イタリアに本拠地を置くオゼッラ・フォードからデビューし、この年は第6戦のモナコグランプリとの2戦のみ参戦した。翌1982年はF1にエントリーしなかったが、1983年より再度オゼッラ・フォード(途中よりアルファロメオ・エンジンを搭載)でフル参戦を果たす。1984年には戦闘力に欠けるマシンながら巧みなドライビングを見せ、アメリカ・ダラスグランプリで5位初入賞を果たす。
[編集] 1985年-1987年
その後1985年の後半からシーズン終了まではトールマン・ハートに移籍した。1987年には当時の中堅チームであったフランスのリジェ・メガトロンに移籍し活躍が期待されたが、非力なメガトロン・エンジンを搭載したマシンの戦闘力が低く、一度も入賞は果たせなかった。
[編集] 1988年-1989年
翌1988年には、ドイツの弱小チームであるザクスピードに移籍し1シーズンを過ごす。1989年には再び古巣のオゼッラに戻り、非力なエンジンのために戦闘力が低いマシンながら、フジテレビF1中継のアナウンサーの古舘伊知郎から「いぶし銀」と評されたような手堅い走りを見せ、この年を最後に引退した。
[編集] グループC
1980年代にル・マン24時間レースなどで活躍したランチアのグループCプロトタイプレーシングカーのワークスドライバーとして活動した他、その経験を生かしてイエスト・ポルシェなどの有力チームでも数々の優勝経験を持つ。
[編集] チーム・ギンザーニ
引退後の1992年にはF3チーム「チーム・ギンザーニ」を結成し、イタリアF3選手権に参戦した後はドイツF3選手権へ参戦している。同チームはF1ドライバーのロバート・ドーンボスを輩出するなど、名門チームとしての評価を得ている。