トールマン
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参戦年度 | 1981 - 1985 |
---|---|
出走回数 | 57 |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 26 |
表彰台(3位以内)回数 | 3 |
ポールポジション | 1 |
ファステストラップ | 2 |
F1デビュー戦 | 1981年サンマリノGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1985年オーストラリアGP |
トールマン(Toleman)はかつてF1に参加していたイギリスのマシン製造者(コンストラクター)、レーシングチームである。
[編集] 概要
このチームは、自動車運搬車を販売していたテッド・トールマンの支援を受けた、フォーミュラ・フォード2000のチームを起源とする。その後チームはF2にステップアップし、ラルトに専用マシンを製作させた。
チームはブライアン・ハートのエンジンを搭載しており、同じく彼の設計したターボエンジンとともに1981年にF1へと参戦した。当初、非力で重いマシンにてこずっていたが、競争力は急速に高まっていった。
トールマンのF1におけるごく短い歴史の中で特に輝かしい瞬間は、後のワールドチャンピオン、アイルトン・セナを擁した1984年のシーズンだろう。1983年にイギリスF3を制し、この年にF1デビューを果たしたセナは、デビュー2戦目の南アフリカGPで早くも6位入賞を果たすと、大雨で短縮されたモナコGPでは優勝したアラン・プロストをあわやというところまで追い詰める走りで2位表彰台を獲得、その後イギリスGPでも3位表彰台を獲得する活躍を見せた。この活躍に目をつけたロータスはセナと翌1985年から契約することを発表したが、セナとトールマンとの契約は翌年もまだ残っていたため、ペナルティとして彼らはセナをイタリアGPに出走させず、ステファン・ヨハンソンをドライブさせることとした。しかし、セナは最終戦のポルトガルGPではこの年の予選最高位となる3番グリッドからスタートし、レースも3位に入り、トールマンでのキャリアを最高の形で締めくくることとなった。
セナの去った1985年にはタイヤ供給に関する問題に直面し、倒産したスピリットが使っていたピレリ製タイヤを引き継いでようやく出走可能となった。同年には、ティレルやアルファ・ロメオを支援していたベネトンとの大口スポンサー契約を取り付けた。なお、この年のドイツGPでは、テオ・ファビがチーム史上唯一となるポールポジションを獲得している。
ベネトンは1985年シーズン終了後にトールマンを買収し、チームは1986年にベネトン・フォーミュラ1と改名された。その後、このチームはさらに2001年にルノーによって買収され、翌2002年よりルノーF1として参戦している。
[編集] F1における成績
太字は選手権ポイントを獲得したレースを示す。
年 | 主なドライバー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
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1981年 | ヘントン, ワーウィック |
SAW | BRA | ARG | SAN | BEL | MON | SPA | FRA | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | CAN | USA | |
1982年 | ワーウィック, ファビ |
SAF | BRA | USAW | SAN | BEL | MON | USAE | CAN | DUT | GBR | FRA | DEU | AUT | SWI | ITA | USA |
1983年 | ジャコメリ, ワーウィック |
BRA | USAW | FRA | SAN | MON | BEL | USAE | CAN | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | EUR | SAF | |
1984年 | セナ, チェコット |
BRA | SAF | BEL | SAN | FRA | MON | CAN | USAE | USA | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | EUR | POR |
1985年 | ギンザーニ, ファビ |
BRA | POR | SAN | MON | CAN | USAE | FRA | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | BEL | EUR | SAF | AUS |