ベルント・シュスター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
ベルント・シュスター(Bernd Schuster、1959年12月22日 - )は、ドイツ・アウグスブルク出身の元同国代表サッカー選手。
ドイツ人選手としては珍しいファンタジスタタイプで、その華麗なプレースタイルからブロンダー・エンジェル(金髪の天使)の異名を持った。特に繊細なボールタッチから繰り出される正確無比なパスは、70年代の西ドイツの名プレーメーカー、ギュンター・ネッツァーが誇った「センチメーターパス」を髣髴とさせると言われていた。 W杯出場経験が無いせいか同じ80年代のゲームメーカーであるミシェル・プラティニやジーコと比べるとその知名度は低い。しかしながら間違いなく80年代を代表する、そして現代に至るまででも屈指のゲームメーカーである。
[編集] 経歴
西ドイツが優勝した1980年の欧州選手権、弱冠20歳でゲームメーカーとして出場し、世界中から絶賛された天才中の天才。同年のバロンドールを獲得したのは同じ西ドイツのカール・ハインツ・ルンメニゲだったが、2位に選ばれたのはこの若者だったという事実が何よりそれを証明している。誰もが西ドイツの、そしてシュスターの輝かしい未来を想像したが、それ以後は代表でのプレーにあまり興味を示さず辞退を繰り返したため、代表出場試合は21と驚くほどに少ない。1990年のイタリアW杯の前にはフランツ・ベッケンバウアー監督に直々の参加要請を受けたにもかかわらず、これも辞退している。(西ドイツはこの大会で見事優勝を果たした。)
西ドイツは優勝したイタリア大会だけでなく、その前回大会(アルゼンチン大会)と前々回大会(フランス大会)でも決勝戦進出を果たしている。もしシュスターがもう少し代表でプレーしていたら、西ドイツは優勝を逃したW杯を含めてさらに多くのタイトルを獲得したことだろう。短い期間にもかかわらず人々にそれだけの夢を抱かせるような「天使」、それがベルント・シュスターだった。
クラブチームではキャリアの多くをスペインのクラブで過ごし、金髪をなびかせ類稀なサッカーセンスでリーガを大いに沸かせた。 なお、スペイン3大名門クラブ(バルセロナ、レアル・マドリード、アトレティコ・マドリードのこと)の全てのクラブでプレイしたという非常に珍しい経験をもつ。特にレアル・マドリードではクラブ史上最高のチームと称されるキンタ・デ・ブイトレの中心として数々のタイトルをもたらした。
監督としては1.FCケルンやウクライナのシャフタール・ドネツク、リーガ・エスパニョーラ・レバンテなどで指揮を執り、2005-2006シーズンからはヘタフェの監督に就任する。
- ポジション OH SH
- 代表デビュー 1979年5月22日
[編集] 所属クラブ
- SVハメルシュミーデ 1971-1976
- FCアウグスブルク 1976-1978
- 1.FCケルン 1978-1980
- バルセロナ 1980-1988
- レアル・マドリード 1988-1990
- アトレティコ・マドリード 1990-1993
- バイヤー・レバークーゼン 1993-1996
ヘタフェCF - 2006-2007 |
---|
1 L・ガルシア | 2 コントラ | 3 パレデス | 4 ベレンゲル | 5 プリード | 6 セレスティーニ | 7 コテロ | 8 ドラド | 9 ヴェルパコフスキス | 10 パウノヴィッチ | 11 ソウサ | 12 リチト | 13 アボンダンシェリ | 14 デル・モラル | 15 ナチョ | 16 アルビン | 17 パチョン | 18 レドンド | 19 グイサ | 20 アレクシス | 21 コルテス | 22 カスケーロ | 23 テナ | 24 アルベルト | 監督 シュスター | |
カテゴリ: 西ドイツのサッカー選手 | ドイツのサッカー選手 | ケルンの選手 | FCバルセロナの選手 | レアル・マドリードの選手 | アトレティコ・マドリードの選手 | レバークーゼンの選手 | ドイツのサッカー指導者 | 1959年生