ホーネット (CV-8)
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艦歴 | |
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起工: | 1939年9月25日 |
進水: | 1940年12月14日 |
就役: | 1941年10月20日 |
その後: | 1942年10月27日沈没 |
除籍: | 1943年1月13日 |
性能諸元 | |
排水量: | 19,800 トン |
全長: | 809.8 ft |
全幅: | 144 ft |
吃水: | 21.7 ft |
最大速: | 33 ノット |
乗員: | 士官、兵員1,889名 |
兵装: | 5インチ砲八基, 1.1インチ機銃16基 (four quad "Chicago Piano" mounts) |
艦載機: | 81-85 |
ホーネット(USS Hornet, CV-8)は、アメリカ海軍の航空母艦。ヨークタウン級航空母艦の3番艦。アメリカ海軍においてホーネットの名を受け継いだ艦としては七隻目にあたる。ドーリットル空襲を行ったドーリットル隊の母艦として有名である。
[編集] 艦歴
1940年12月14日に海軍長官フランク・M・ノックス夫人、アニー・リード・ノックスによってバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で進水し、1941年10月20日に初代艦長マーク・ミッチャー大佐の指揮下就役した。
真珠湾攻撃前の日米関係が不安定な時期に、ホーネットはノーフォークから訓練航海に出航した。ホーネットは二機の陸軍航空隊所属のB-25ミッチェルを搭載していた。海上での二機のB-25は、艦の乗員に驚きと戸惑いを与えた。ホーネットは戦闘準備のためノーフォークに帰港し、1942年3月4日にパナマ運河経由で西海岸へ出航したが、乗員にはB-25での訓練が何を意味したのか気が付く者はなかった。
ホーネットは3月20日にサンフランシスコに到着した。艦載機を格納庫に収納し、16機の陸軍航空隊所属のB-25ミッチェルを飛行甲板に搭載した。ジミー・ドーリットル中佐の指揮下70名の士官と64名の兵員が乗艦した。ホーネットは4月2日に陸軍航空隊員にその命令を秘密にしたままサンフランシスコを出航した。その日の午後、ミッチャー艦長は彼らに使命「日本本土空襲」を通知した。
11日後、ホーネットはミッドウェーでエンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)と合流し、第16機動部隊は日本に向けて回頭した。エンタープライズは航空支援を担当し、ホーネットは敵水域に深く進入し、ドーリットル中佐率いる爆撃隊が東京を始めとする日本の主要都市を攻撃する予定であった。当初の予定では機動部隊は日本の沿岸から400マイル以内まで進む予定であったが、4月18日の朝に犬吠埼東方で特設監視艇第23日東丸に発見される。巡洋艦ナッシュヴィル(USS Nashville, CL-43)が日東丸を撃沈するが、日東丸は米艦隊発見を報告しており、機動部隊の存在と位置は日本海軍に察知される。日本沿岸から600マイルの地点であったが、日東丸による発見はウィリアム・F・ハルゼー提督に、08:00に攻撃隊の発艦を決意させた。 爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、艦は猛烈に揺れ艦首からの波は飛行甲板と乗員達を濡らした。ドーリットル中佐に率いられた爆撃隊は467フィートに及ぶ飛行甲板に固定されたが最後尾のB-25は扇形に搭載された。09:20までに日本の心臓部へ初の空襲を行う部隊として16機のB-25は全て発艦した。 ホーネットは自艦の艦載機を飛行甲板に搭載し、全速力で真珠湾に向かった。日本語および英語両方のラジオ放送を傍受し、空襲の成功は14:46に確認される。B-25を搭載してからちょうど一週間後にホーネットは真珠湾に帰港した。ホーネットの任務は一年間公式には秘密とされた。
1942年6月、ホーネットは僚艦エンタープライズ、同型艦ヨークタウンと共にミッドウェー海戦に参加した。アメリカ機動部隊は南雲忠一中将が率いる日本機動部隊の空母4隻を全滅させるとともに、さらに退却する日本艦隊を追い打ちし重巡三隈を撃沈しているが、ホーネットの艦載機は目立った戦果は上げられなかった(雷撃機は全滅、急降下爆撃機も半数を燃料不足で海没させている)。
1942年8月から始まったガダルカナル攻防戦にも参加したが、南太平洋海戦で日本機動部隊の集中攻撃を受けて魚雷・爆弾を浴び、炎上。被害が大きかったため復旧不能と判断したアメリカ軍はホーネットの処分を試み、駆逐艦マスティン(Mustin, DD-413)およびアンダーソン(Anderson, DD-411)から9発の魚雷と400回に及ぶ5インチ砲の砲撃が行われたが、ホーネットは沈まなかった。最終的に、前進してきた日本軍の駆逐艦二隻が拿捕曳航を試みるも断念、明るく炎上するホーネットの船体に向けて4発の魚雷を発射し命中、ホーネットは1942年10月27日の01:35にサンタクルーズ諸島沖で沈没した。彼女の生涯は、就役からわずか1年と7日という短いものであった。(除籍は1943年1月13日)なお、ホーネットが攻撃を受けるこの様子は艦上からフィルムに記録されており、このフィルムを鹵獲した日本では学徒出陣の映像と共にニュース映画として上映され、有名な映像となっている。
ホーネットは第二次世界大戦中の戦功で四つの従軍星章を受章した。第8雷撃機隊(VT-8)はミッドウェー海戦で「任務に対する特別の英雄的行動と特筆すべき功績により」殊勲部隊章を与えられた。(第8雷撃機隊は戦闘機の援護が無いまま攻撃を行なって全機撃墜され、生存者はゲイ少尉ただひとりであった)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: ヨークタウン級航空母艦 | 軍艦スタブ