マールバラ公ジョン・チャーチル
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初代マールバラ公ジョン・チャーチル(John Churchill, 1st Duke of Marlborough, 1650年5月26日 - 1722年6月16日)は、スペイン継承戦争で活躍したイギリスの軍人。廷臣として出世を遂げるとともにスペイン継承戦争で軍才を発揮して、一代でイギリスの名門貴族マールバラ公爵家を興した。
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[編集] 生涯
[編集] 誕生から名誉革命まで
のちのマールバラ公ジョン・チャーチルは、清教徒革命にともなうイングランド内戦中に王党派の郷紳ウィンストン・チャーチルの子として生まれた。1660年に王政復古が実現してチャールズ2世が即位した後、姉アラベラが王弟のヨーク公ジェームズの寵愛を受けるようになり、その縁で16歳のとき、ヨーク公配下で軍人となった。1672年からはオランダとの戦争に従軍し、三十年戦争におけるフランスの英雄テュレンヌ元帥の知遇を受けてその軍才を見出された。
チャーチルは戦争の終わった1674年にイギリスに戻り、1678年にヨーク公の宮廷の女官サラ・ジェニングスと結婚した。1682年、チャーチルはスコットランド貴族に叙せられ、ロードの爵位を得た。1685年にチャールズ2世が死去し、王弟ヨーク公がジェームズ2世として即位すると、チャーチルは新王の信任を受け、イングランド貴族に叙せられて男爵の爵位を与えられた。
1688年、ジェームズ2世が議会の支持を失い、オランダのオラニエ公ウィレム3世が軍を率いてイギリスに侵入すると、ジェームズ2世はチャーチルを軍の司令官に任命し、侵略者を打ち破るよう命じた。しかしチャーチルをはじめとする軍隊は主君を裏切ってウィレムに従い、名誉革命が実現した。
1689年、ウィレムとその妻メアリーがウィリアム3世、メアリー2世として即位すると、チャーチルは擁立の功績を持って枢密顧問官に任ぜられ、マールバラ伯爵に叙せられた。しかしマールバラはウィリアム3世からはあまり信頼されず、大陸に亡命中の旧主ジェームズ2世と秘密裏に通信を続けている嫌疑により1692年には投獄されている。
[編集] スペイン継承戦争
1702年、先年にスペイン・ハプスブルク家が断絶したスペインの王位にフランスのルイ14世が孫のフィリップを送り込んだことにオーストリアのハプスブルク家が反対して起こったスペイン継承戦争が、マールバラの名声を歴史に残すことになった。フランスとスペインが将来同君連合になって強大化する可能性を怖れたウィリアム3世のオランダおよびイギリスはオーストリアに荷担することを決め、フランスと戦端を開いた。
戦争を開始した直後にウィリアム3世が死去すると、マールバラの妻サラの友人でもあるジェームズ2世の娘、アンが女王として即位した。戦争は新女王のもとで遂行されることになり、妻の縁で女王の信任を受けることになったマールバラはガーター勲爵士に叙勲、イギリス軍総司令官として大陸に派遣された。また、マールバラの友人であるホイッグ党のシドニー・ゴドルフィンが大蔵卿に就任し、軍を率いるマールバラと協力して戦争を推進することになった。
大陸に上陸したマールバラは、ナイメーヘンでオランダ軍と合流し、スペイン領ネーデルラント(現ベルギー)のミューズ川流域のフランス軍防衛線を脅かした。マールバラは戦意の弱いオランダ軍との共同作戦に苦労したが、10月23日にはミューズ川流域の主邑リエージュを占領することに成功する。マールバラは、この功績により公爵に陞爵し、マールバラ公に叙せられた。
[編集] 輝かしき勝利
1704年には、スペイン継承戦争中の活躍の中でも最も輝かしい戦果をあげた。ライン川下流域のベトブルクでフランス軍に備えていたマールバラは、ルイ14世がバイエルン選帝侯マクシミリアン2世と同盟してフランス軍を南ドイツに派遣し、オーストリア本国を衝こうとしたのに対抗するため、ドナウ川上流域に向かって転進した。このとき、マールバラはフランス軍にはオーストリア軍の側面支援のためアルザスを衝こうとしていると見せかけるため、はじめライン川を遡って進んだが、マンハイムを過ぎたところで突如方向をウルムに転進し、そこからわずか2週間でオイゲン公率いるオーストリア軍と合流することに成功した。マールバラの軍がオーストリア軍と協力してバイエルン軍を駆逐し始めると、フランスは3万5000の援軍をバイエルンに派遣し、バイエルン駐留のフランス軍と合流させた。8月13日、フランス軍5万6000とイギリス・オーストリア連合軍5万2000の間で行われたブレンハイムの戦いは、イギリス・オーストリアの勝利に終わった。この戦いでフランス軍は南ドイツ方面の戦線を大幅に後退させることになり、スペイン継承戦争の形勢を反フランス同盟側に大きく傾かせる転換点となった。
バイエルン制圧の後、イギリス軍は再びライン川に沿ってネーデルランドに戻った。マールバラはオイゲンと協力して反フランス同盟による大攻勢を準備したが、同盟の足並みの乱れとフランス軍の反抗によってうまくいかなかった。それでも1706年には、ナミュール近郊で行われたラミリーの戦いでマールバラの軍はフランス軍を殲滅し、ブリュッセル、アントウェルペン、ヘント、ブリュッヘなどスペイン領ネーデルランドの主要都市はみなイギリス軍の勢力下に置かれた。
1708年、フランスがフランドルに軍を送って再び反攻を開始すると、オランダやドイツの諸領邦国家は戦争を渋り始め、イギリス国内でもトーリー党を中心に和平の声が高まりつつあった。マールバラは自身の栄光を実現するために戦争を最後まで遂行することを望み、その妻サラも友人である女王に夫の意思を伝えたが、平和を望む女王はマールバラ公爵夫人に対する信頼を失っていった。このような政治的な逆境にあっても、マールバラはオーストリアのオイゲン公と協力してフランドルのフランス軍に対抗し、7月11日にアウデナールデの戦いでフランス軍を破った。フランドルのフランス軍主力はこの敗戦によって後退し、12月9日に連合軍はフランス領フランドルの都市リールを攻略した。翌1709年、マルプラーケの戦いでフランス軍と反フランス同盟軍は再び激突し、この戦いは連合軍の勝利に終わったものの、連合軍も死傷者数万の大損害を受けた。
[編集] 司令官解任と晩年
マールバラは続いてフランス領のアルトワ丘陵とフランドル地方の諸要塞を攻略にかかったが、翌1710年、2つの事件から彼の立場は劇的に悪化した。この年、アン女王とマールバラ公爵夫人サラの対立が決定的となって女王がサラを宮廷から追放し、またホイッグ党が選挙に敗れて戦争を推進してきた大蔵卿ゴドルフィンが政権から滑り落ち、かわってトーリー党が政権についた。新政権はこれまで取り調べを免れていたマールバラによる軍事費着服疑惑の調査を開始し、1711年、オーストリアからイギリスに支払われた軍資金数万ポンドがマールバラによって横領されていたことが報告された。これによりマールバラは最高司令官の座を失い、まもなく和平交渉が開始された。
1713年、ユトレヒト条約が結ばれ、戦争はフランスの体面を保たせつつもヨーロッパ大陸によるその覇権を大きく傷つける結果に終わったが、その最大の功労者であるマールバラは既に権力を失っていた。1714年にアン女王が死去し、遠縁のハノーファー選帝侯ゲオルクがジョージ1世として即位したことによって、マールバラはイギリスに帰ったが、もはや名目上の役職しか与えられなかった。マールバラは1704年にブレンハイムの戦勝の恩賞としてアン女王から与えられた領地にこもり、1705年に着工したブレナム宮殿の建設に専念した。宮殿はマールバラの生前には完成せず、1722年にマールバラが没すると遺骸はウエストミンスター教会に葬られた。後に未亡人となったマールバラ公爵夫人によってブレナム宮殿のチャペルに夫妻の墓地が設けられ、遺骸はその地に改葬されて現在に至っている。
[編集] マールバラ公家のその後
マールバラには相続人として男子ジョンがいたが早世した。このためマールバラ公家を守るために特別の措置がはかられ、爵位の相続権が女子にも与えられた。その結果、マールバラ公の次女アン・チャーチルがマールバラ公爵位の継承権を獲得し、のちにアンと第3代サンダーランド伯チャールズ・スペンサーの間の長男チャールズがマールバラ公の爵位を継いだ。マールバラ公スペンサー家は後に初代公爵にちなんで姓をスペンサー=チャーチルに改め、現在に至っている。第二次世界大戦期のイギリス首相ウィンストン・チャーチルはこのスペンサー=チャーチル家の分家の出身である。また、マールバラ公チャールズ・スペンサーの弟で同じく母方でマールバラ公ジョン・チャーチルの血を引くジョン・スペンサーの子孫は、のちにスペンサー伯爵家となり、その子孫からイギリス皇太子妃となったダイアナ・スペンサーが出ている。
[編集] 評価
マールバラの戦略の特徴は、機動性を重視して当時としてはきわめて異例な行軍速度を誇ったことにある。彼はそのために事前に兵站を綿密に計画し、行軍時間や武器の輸送方法を工夫して、兵士の疲労や物資の遅延を起こさないようにしつつ、1日に何マイルもの移動を行った。彼はこの機動性を生かして敵軍の側面からの攻撃を行い、しばしば少ない被害で大きな戦果をあげた。かといって激戦となったときも被害を怖れて後退しようとしたりせず、自ら陣頭に立って冷静に指揮を取る勇敢さも持っていた。しかし軍事的な才能と同時に金銭に対する貪欲さを持ち、人格的な高潔さに欠けていたことは彼の栄光に汚点を残すことになった。