メソジスト
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メソジスト(Methodism)とは、18世紀の英国に生じたジョン・ウェスレーによるキリスト教の信仰覚醒運動、およびそれから発展したプロテスタント教会・教派をいう。
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[編集] 概要
本国英国ではさほどの勢力にはならなかったが、アイルランド、アメリカ、ドイツなどに早くから布教し、現在アメリカでは信徒数が2番目に多いプロテスタント教団である。信条としてはルター派に近く、悔い改めによる救済を強調する。カルヴァンの説いた予定説的な考え方はとらない。これゆえ、ヨーロッパ大陸におけるプロテスタントの二大潮流であるルター派と改革派は、英国や米国ではメソジスト派と長老派にほぼ重なる。
[編集] 特色
特徴としては、日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を推奨し、これが実践できているか互いに報告し合う教会ミーティングを重視した。このため軍隊や学校と相性がよく、ミッションスクールや病院の建設、貧民救済などの社会福祉にも熱心。日曜学校(教会学校)や口語による平易な讃美歌を普及させたのもメソジスト教会が中心であった。概して上流階級よりも中下層階級あるいは軍人への普及に力を入れた。教会自体に軍隊組織を採用した救世軍や「聖潔」(きよめ)を強調するホーリネス運動、聖霊の働きを強調する聖霊派などもこのメソジスト運動の流れである。
[編集] 歴史
[編集] イギリスでの歴史
この教派は、18世紀の英国で始まった信仰覚醒運動から生じたが、しかし、実際の運動を支えたのは、多くの平信徒からなる説教者たちであった。つまり、もともとメソジスト派は信徒運動という性質の強い教会であった。
当初はジョン・ウェスレーをはじめとするごく少数のイングランド国教会の司祭たちによって指導され、聖職者がほとんど参加していなかったため、平信徒の説教者を用い、これを認めない国教会と対立し、はげしく迫害された。神学的には国教会と同じくローマ神学を継いでいるが、上記の信徒による自立的な宗教活動を教義的に支えるため、プロテスタント諸派の中でも特異な聖霊学をもつ。
イギリスにおけるメソジスト運動は、主に中下層階級の市民や軍人を対象とした大衆運動として展開されながらも、ウェスレーという強烈な個性の存在によって、禁酒禁煙や几帳面な生活様式を要求するなど、爆発的な信徒数に結びつくにはほど遠い、厳格なピューリタン的な要素を含んだ運動であった。
[編集] アメリカでの歴史
これが新大陸アメリカに宣教され、まだ開拓時代の西部へと急速に広がっていく過程において、その性質をかなり変貌させていく。教派の通称にもなっていたメソッド(謹厳な生活方式)は二の次にされ、ウェスレーの説いた教義のある部分と大衆運動という側面が強調されていった。すなわち、救いは罪の自覚とともにすでにあるものとして体験されるというスピリチュアルな喜びと、その喜びに基づいて、この現世において神の国を実現しようという強烈な社会変革意欲であった。こうして、開拓時代のアメリカで宣教に当たった説教者たちの多くは、専門教育こそ充分に受けてはいないが、熱烈な信仰心をもち、社会事業へのバイタリティにあふれた人たちであった。 1828年米国メソジスト教会より、教会政治の意見の相違によりメスジスト・プロテスタントが分離独立した。 1843年奴隷問題を巡って、ウェスレアン・メソジスト教会が分裂した。米国の南北戦争では教会自体も南北にわかれて戦った。1854年南北に分裂し、北部ではアメリカ北メソジスト監督教会と南メソジスト教会が組織された。のちに再合同したが、このときの分裂が現在も北米メソジスト教会、南メソジスト教会という名称に残っている。1860年アメリカ北メソジスト監督教会から、アメリカ自由メソジスト教会が分離した。
[編集] 日本での歴史
日本ではカナダ・北米教会による宣教から青山学院、南メソジスト教会による宣教から関西学院が生じた。日本メソヂスト教会は戦前から日本基督教団に参加している。他には日本自由メソヂスト教団、日本フリーメソジスト教団,東京フリー・メソジスト教会などが存在する。
1873年 米国メソジスト監督教会が宣教師を派遣し、横浜、東京、長崎、函館、を伝道の拠点とした。本多庸一が弘前でメソジストに改宗し,やがて本多を中心として1884年 日本年会を組織した。1907年に神戸を中心として大阪・京都に伝道していた米国南メソジスト教会と静岡を中心に伝道していたカナダメソジスト教会が合同して、日本メソヂスト教会が誕生した。
1881年に米国メソジスト・プロテスタント教会本部が日本における教育及び伝道事業を開始した。その結果、横浜英和女学校と名古屋学院それから横浜第一、第二、第三美普教会、その後平塚、茅ヶ崎、伊勢原に会堂を建設した。横浜に続き、名古屋に伝道事業を開始し、1897年名古屋第一教会、第二(中京)第三(熱田)、続いて静岡、浜松と東海道沿いに伝道事業が進められた。その後日本美普(みふ)教会になり、1939年管理が米国本部より邦人に引き継がれた。
1895年アメリカ自由メソジスト教会が柿原正次を日本自由メソジスト教会日本初代監督に任命して日本に派遣した。続いて、1896年河辺貞吉がアメリカ自由メソジストから日本伝道の責任者に任命されて日本に派遣された。河辺貞吉らが淡路島で伝道活動を始めた。8年間淡路島で伝道活動をして、大阪や兵庫でも活動した。1903年アメリカ自由メソジスト教会は最初の宣教師として、マチウソン夫妻、ヤングレン夫妻を日本に派遣した。1908年伝道者の育成のために大阪伝道館(現在、大阪基督教短期大学)を設立した。
1940年自由メソジスト教会、日本ナザレン教会、日本同盟基督協会、世界宣教団が日本聖化基督教団を結成する。総理に土山鉄次が就任した。1941年日本基督教団の成立に伴い、日本聖化基督教団が第8部に、日本メソヂスト教会と日本美普教会が第2部になる。になる。戦後8部の構成団体は日本基督教団を離脱したが、第2部の多くは日本基督教団に留まっている。
戦後に、日本フリーメソジスト教団が日本基督教団から独立し(1952年創立),続いて、日本自由メソヂスト教団(1953年)創立が独立する。また、日本自由メソヂスト教団より独立して、東京フリー・メソジスト教会が誕生した。
また、本多庸一によって改宗しメソジスト教会の伝道師になった中田重治によってホーリネス運動が起こり、その結果ホーリネス派の諸教会が誕生した。 また、英国メソジストから生まれた救世軍が、ライト大佐によって1895年から日本で始まった。日本での働きが開始されてまもなく、山室軍平が入隊し、後に日本人最初の士官として任命された。日本救世軍の自立を成長のために貢献した。日本では、災害の義捐金募金活動、出獄人保護事業などの社会事業を行った。